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「朝日新聞」 のテレビ露出情報

1930年に選挙で勝利したのは第27代首相の浜口雄幸。5年前に普通選挙が成立し、有権者の数は4倍になり、議員たちは支持獲得に躍起になった。当時は政治と国民の橋渡しになっていたのは新聞だ。当時の日本は世界恐慌による不況のただ中だったので国家予算の大きな比重だった軍事費を抑えたいという思いがあったという。
しかし1931年に満州事変が起こり、首相の若槻禮次郎が知ったときにはすでに兵が動き出しており、軍の動きを追認するしかなかった。そして1932年に満州国が建国された。そして軍需と輸出の拡大で失業率は改善した。新聞も国民が喜ぶ記事を書き続けた。一方で首相の犬養毅は軍の動きを警戒し、欧米との強調を重視していた。ただ犬養毅は海軍の将校らに暗殺された。
後任は海軍大将だった斎藤実で、ここで政党内閣は終了し、軍は国民を巻き込んだ大規模な防空演習をするようになったという。1936年には二・二六事件起こり,政界の重鎮である高橋是清や斎藤実らが暗殺された。そして軍部は武力をチラつかせながら政治に干渉し始めた。そうした中で近衛文麿が首相になった。
19737年に盧溝橋事件が起きた。日本軍と中国軍が激突して中国との戦争は拡大した。近衛文麿は軍部の圧力に負けて、国家総動員法を出した。近衛文麿は国民の協力を引き出すために日本放送協会のラジオを使ったという。こうした戦争の熱狂の渦に多くの文化人も飛び込み、吉本興業の漫才師なども飛び込んだという。近衛文麿はイタリアとドイツと同盟を結んでアメリカに対抗しようとした。そしてアメリカは日本への石油の禁輸に踏み切った。そして近衛文麿は首相の座を投げ出した。
後継は東條英機が首相になった。世論は対米強行に傾いており、軍部も国民の熱狂を抑えることはできなくなっていた。東條英機が就任してから2ヶ月後に真珠湾攻撃が行われた。しかし戦況は悪化していき、東條英機は辞職した。その後は鈴木貫太郎が首相になり、1945年の8月15日に終戦を実現させた。終戦の2日後に鈴木貫太郎は辞任した。
戦争が終わると国民の熱狂は戦争指導者たちへの怒りに変わった。戦争を主導したとして東條英機は死刑になり、近衛文麿は自宅で自殺したという。戦争責任は政治家だけではなく菊池寛なども責任を問われたという。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年10月13日放送 8:00 - 9:55 テレビ朝日
羽鳥慎一モーニングショー(ニュース)
視聴者からLINEで質問・意見を募集している。パネルコーナーはTVer・ABEMAで配信中。
先週金曜日自公党首会談を行い公明党から連立離脱を伝達した。公明党が求めたのは企業団体献金の規制強化案で、お金の流れを透明化するため受け皿を限定するよう要求した。高市総裁は3日間時間が欲しいと主張したが公明党はその場での回答を要求した。斉藤代表は「国政選挙における党[…続きを読む]

2025年10月12日放送 19:54 - 20:56 テレビ朝日
ポツンと一軒家フランスのポツンと一軒家
フランスのポツンと山奥で養鶏農家をしているエリックさんとマルタさんに密着。養鶏について2018年からやっていてそれまでエリックさんは化粧品会社の営業部長していた。2010年代に金融危機が起きて、2人ともそれぞれ仕事を解雇され色々考えてマルタさんとフランスに戻った。当時、じっとしていても未来は開けないとマルタさんといっしょにできる仕事を探し結果的に養鶏を始めて[…続きを読む]

2025年10月10日放送 15:49 - 19:00 TBS
Nスタ(ニュース)
自民党・高市早苗総裁の会見。今日の党首会談で公明党側からは政治資金規正法改正に関する公明党案についてその場での賛否を示すよう求められたという。自民党側は党内手続きが必要な手前一旦持ち帰って協議し、来週にももう一度協議の場を設けたいと提案。これを受けた公明党側は「それは具体的回答ではない」として一方的に連立政権からの離脱を伝えたとのこと。高市総裁は会談の中で「[…続きを読む]

2025年10月10日放送 15:42 - 19:00 フジテレビ
イット!(ニュース)
党首および幹事長による会談は、何かを決める会談ではないと高市総裁がいう。公明党が地方から聞いたこえを伝えることが議題だった。前回の会談で斉藤代表から示された懸念点は、真摯に対応するため党内で作業をすすめた。公明党からは政治資金規正法案について、この場で賛否を決めるよう求められたという。しかし、自民党は党内手続きが必要だ。総裁と幹事長だけで、議員立法まで応える[…続きを読む]

2025年10月10日放送 10:25 - 13:00 テレビ朝日
大下容子ワイド!スクランブルピックアップNEWS
ノーベル文学賞を受賞したクラスナホルカイ・ラースロー氏は出版社勤務を経て作家に一文が数ページにわたって続く特異な文体で出口の見いだせない不条理な状況を描く作風となっている。また、1997年に初来日し2000年から京都に半年滞在し日本の伝統文化を研究。2003年には「北は山、南は湖、西は道、東は」を日本語に翻訳し出版。

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