1990年代、携帯電話サービスが始まり、NTTを筆頭に市場争いは熾烈を極めた。そんな中競争に出遅れ、最後尾から市場に滑り込んだ東京デジタルホン、後のJ-PHONE。JRや鉄鋼会社が出資して作った会社だったが、「電話が繋がらない」などとクレームが殺到、社内総出でお詫びする騒ぎになった。矢面に立たされた端末課は謝罪行脚するハメに。そもそも端末課の3人は素人集団だった。その中でマツダから出向した高尾慶二は、大企業では歯車に過ぎない自分も誇れる仕事ができるかもしれないと思ったという。しかし後発の携帯電話会社には繋がりにくい電波帯しか残っていなかった。市場は大手2社に握られており、メーカーも押さえられている。
高尾の故郷は長崎県。高尾にものづくりの喜びを教えてくれたのは鍛冶屋を営む父だった。「物がないなら創ればいい」とは父の教え。開業から3年。一方SHARPは携帯電話市場に出遅れ大手メーカーの中で唯一、本格参入を果たせずにいた。80人の部下を守るため、J-PHONEの誘いにかけた。目指したのはポケベルよりも長いメールを送れる携帯電話。このアイデアが後にカメラ付き携帯電話へと発展することになる。
高尾の故郷は長崎県。高尾にものづくりの喜びを教えてくれたのは鍛冶屋を営む父だった。「物がないなら創ればいい」とは父の教え。開業から3年。一方SHARPは携帯電話市場に出遅れ大手メーカーの中で唯一、本格参入を果たせずにいた。80人の部下を守るため、J-PHONEの誘いにかけた。目指したのはポケベルよりも長いメールを送れる携帯電話。このアイデアが後にカメラ付き携帯電話へと発展することになる。