1980年代、ブランド物を身にまとった者たちが手にするのはカクテルやワイン。その勢いに押され日本酒は売り上げを落としていた。福島県ではコストを減らし安く大量に売りさばいて利益を出す。ある蔵では醸造アルコールや水飴などを足して3倍に水増し。まずいのは分かっているが蔵を守るにはこのやり方しかなかった。150年続く酒蔵の跡取として生まれた渡辺康広は中学生の頃、生活のため大量に酒を出荷する父の姿を見ていた。しかしこの生き残り策は福島にダメージを与えていった。大学を卒業し酒蔵を継ぐため戻って来た渡辺。営業のため関東の酒屋に飛び込むと担当者から「福島の酒安は置けない」と言われた。さらに東北の酒蔵仲間からも「東北を6両列車だとすると福島は最後尾の貨車。つまりお荷物だ」と言われた。全国新酒鑑評会でも金賞が0の年もあった。渡辺は、郡山の佐藤、会津若松の新城、松本と組み金賞を取ることを決めた。酒を持ち寄って集まり正直な意見をぶつけ合うことにした。名付けて「金とり会」。計画を聞いた杜氏の佐藤寿一は酒蔵同士はライバル、手の内を見せ合うのは常識外れだと驚いた。4ヶ月後の1995年3月、1回目の金とり会が開かれた。渡辺の酒は香りが少なく味わいも深みもないとこき下ろされた。そんな中、見慣れない男が話しかけてきた。それは県の研究所で日本酒を担当する鈴木賢二だった。鈴木賢二は「渡辺さんのお酒、香り成分を1ppm上げるとおいしくなりますよ」と言った。渡辺はこの言葉を聞いて日本酒づくりを変えられるかもしれないと気づいた。こうして福島のプロジェクトが始まった。
