- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 鈴木大介 渡辺康広 鈴木賢二
午前6時、暗がりの中で作られているのは日本酒。日本文化の象徴として世界の無形文化遺産にも選ばれた。その味を競う全国新酒鑑評会で9回連続日本一を誇るのが福島の酒だった。かつて福島の酒は安いがまずいと蔑まれていた。さらにどん底から這い上がろうとする蔵人たちを襲ったのは大震災。これは何度、奈落の底に叩き落とされても、立ち上がった不屈の酒の物語。
オープニング映像。
有馬嘉男らの挨拶。今回はどん底から日本一に上り詰めた福島県のお酒の物語。去年の新酒鑑評会で16の金賞を獲得した。鑑評会には毎年全国から800以上の酒蔵が出品する。福島県は2013年から9連覇を達成している。しかし福島の酒はかつて安いがまずいというレッテルが貼られていた。
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- 福島県
1980年代、ブランド物を身にまとった者たちが手にするのはカクテルやワイン。その勢いに押され日本酒は売り上げを落としていた。福島県ではコストを減らし安く大量に売りさばいて利益を出す。ある蔵では醸造アルコールや水飴などを足して3倍に水増し。まずいのは分かっているが蔵を守るにはこのやり方しかなかった。150年続く酒蔵の跡取として生まれた渡辺康広は中学生の頃、生活のため大量に酒を出荷する父の姿を見ていた。しかしこの生き残り策は福島にダメージを与えていった。大学を卒業し酒蔵を継ぐため戻って来た渡辺。営業のため関東の酒屋に飛び込むと担当者から「福島の酒安は置けない」と言われた。さらに東北の酒蔵仲間からも「東北を6両列車だとすると福島は最後尾の貨車。つまりお荷物だ」と言われた。全国新酒鑑評会でも金賞が0の年もあった。渡辺は、郡山の佐藤、会津若松の新城、松本と組み金賞を取ることを決めた。酒を持ち寄って集まり正直な意見をぶつけ合うことにした。名付けて「金とり会」。計画を聞いた杜氏の佐藤寿一は酒蔵同士はライバル、手の内を見せ合うのは常識外れだと驚いた。4ヶ月後の1995年3月、1回目の金とり会が開かれた。渡辺の酒は香りが少なく味わいも深みもないとこき下ろされた。そんな中、見慣れない男が話しかけてきた。それは県の研究所で日本酒を担当する鈴木賢二だった。鈴木賢二は「渡辺さんのお酒、香り成分を1ppm上げるとおいしくなりますよ」と言った。渡辺はこの言葉を聞いて日本酒づくりを変えられるかもしれないと気づいた。こうして福島のプロジェクトが始まった。
渡辺康広は「香り低いとか味わいが薄いとか、言われたりもしたので内心、カチンときている部分もあり、でも言い返せなかった。私も自分のお酒に対してそう感じていた」などと話した。金とり会の中では本当にホンネのやり取りが行われていた。新たな挑戦で新しい酒を作りながら、品質を高めていく方向に持っていかないといけないというのがみんな思っていたという。
ふるさとの酒造りをどうすれば変えられるのか、渡辺たち「金とり会」のメンバーは議論を重ねていた。研究者の鈴木賢二もデータの分析ばかりではわかりあえないと自分も酒を作ることにした。酒造りは重労働だったが決して諦めなかった。1ヶ月後、賢二は作った酒を「金とり会」に持っていった。杜氏の佐藤寿一は味はまだまだだが心意気は嬉しいと思った。賢二ははデータ、杜氏は技を伝え二人三脚で酒造りを進めるようになった。だが結果はすぐには出ない。金賞の数は一進一退だった。ある日、面白い酵母を見つけたと会の1人がやってきた。「協会1601号」はこれまでにない香りを醸し出す事ができるという。「協会1601号」は吟醸酒の華やかな香りやキレのある味を強く打ち出せる。これをものにできれば金賞に近づける。渡辺は「協会1601号」を入れてみたが泡がなかなか増えていかない。賢二は「協会1601号」のデータを集め分析。自らも10回以上酒を作り最適な環境を確かめていった。金とり会も同じ特徴をもつ酵母を集め、それぞれの環境で試していった。失敗続きだったが誰一人、諦めず挑み続けた。1年後、賢二が最適な数値を見つけた。酵母を合わせる時の温度は6.5℃。発酵を進める時は11℃。厳密な温度管理を渡辺たちに求めた。渡辺たちは何度も話し合いながら酒を極めていった。1年1年少しずつ酵母をいかせる蔵が増えていった。金賞の数も10を超える年が続くようになっていった。2006年春、賢二の元に渡辺から「日本一になったぞ」と連絡が入った。金賞の数は23。11年かけて初めての日本一に輝いた。2010円には2度目の日本一。安いがまずいというイメージを完全に覆した。しかし翌年3月11日、東日本大震災が発生。津波が全てを流し原発事故が起こった。金とり会の若手、鈴木大介。浪江町で200年続く酒蔵を構えていたが津波で完全に流されてしまった。しかも原発からわずか7km。大介は蔵の跡地を見に行くことすらできなかった。
福島の酒造りは何が変わった?という質問に鈴木賢二は「一番最初に金とり会をやったとき、本当に皆さんろくな酒を持ってこない。1~2社はお手本みたいなお酒を作ってくるので、情報交換してうまく結果がでた」などと話した。2011年の懇親会は一番盛り上がったという。
200年続いてきた酒蔵、家、津波と原発事故は大介から全てを奪った。廃業もやむを得ないと考えていたとき、叔父がある写真を見せてきた。蔵の跡地に酒瓶が並んでいた。誰かが流された酒瓶を拾い集めてくれていた。この写真を見て大介はもう一度酒を作りたいと思った。しかし大介の酒は蔵に200年受け継がれる独自の酵母で作られていた。これがなければ同じ味は出せない。そんなとき、賢二から「研究室に来てくれ」と電話があった。駆けつけた大介に賢二は小さな容器を手渡した。大介の蔵に200年伝わる酵母。性質を調べるために預かっていたものだった。しかし肝心の酒蔵がない。その時、金とり会のメンバーの1人、細井信浩がうちの蔵を貸す、大介の酒を作らないかと言ってくれた。細井は会津地方で酒蔵を営んでいた。細井の蔵も震災の被害を受け大量の酒がダメになっていた。それでも大介に酒を作ってほしかった。大介は細井に今すぐに酒を作らせてくれ夏までに間に合わせたいと頼み込んだ。日本酒づくりは高温に弱い。春から夏にかけて仕込むのは至難の業だった。それでも浪江の人のために酒を届けたかった。こうして常識外れの酒造りが始まった。その最中、大介の元に応援の手紙が届き始めた。1週間後、大介は麹米を作り上げ水と蒸した米を混ぜ合わせた。いよいよ生き残った酵母を入れて発酵させる。果たして酵母は働くのか。酵母を入れて3日後、泡が湧いてきた。こうして2000本分の酒が完成した。7月12日、大介は浪江の人が避難する地域に向かい、酒を届けた。数日後、常連客がら「津波で亡くなった父の仏壇に供えられる。ありがとう」と電話がかかってきた。大介の酒はたちまち完売した。金とり会のメンバーも奮い立った。原発事故による風評被害で売り上げはどもらない。復興フェアと名付けられた催しでも酒や農産物は無視された。それでもいつか分かってくれると旨い酒をつくるため力を込めた。2013年5月、渡辺たちは全国新酒鑑評会に挑んだ。福島は過去最多の26の金賞を受賞し日本一に返り咲いた。
瓶が並んでいる写真を初めて見た時について鈴木大介は「下に手紙があった。この酒があってよかったと書かれていて。そこで腹が決まった」などと話した。鈴木賢二は「あなたには信用があるから。それと酵母が残っているから頑張ってくれと言った」などと話した。渡辺康広は「震災後、売り上げが半分以下まで落とされたなかで、酒蔵全体が1枚岩になって動いたなっていうのは当時感じていた」などと話した。
日本一に返り咲いた福島。その後、史上最多の9回連続日本一に輝いた。浪江の酒を復活させた鈴木大介は5年前、町の施設を借りて、地元での酒造りを再開した。そして傍らには息子の彦気さんがいた。父の背中を追い酒造りの修行に励んでいる。
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