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「松田道一」 のテレビ露出情報

1945年に入ると、昭和天皇と松田は御進講の場で降伏や和平についての会話を交わすことが多くなった。欧州では2月にソ連軍がベルリンに迫る勢いで進撃を続けており、その危機的な状況を耳にした天皇は日本の講話についても考えるようになる。昭和天皇が終戦の道を模索する中で、5月7日にドイツが無条件降伏し、6月には沖縄戦が始まる。本土決戦も間近となる中でバチカンも和平の仲介に動き出す。OSSの諜報員がバチカンを通じて「占領地の還付と陸海軍の武装解除」を条件に講話に応じると伝えてきたのだ。この条件は外務省にも伝えられていたが、東京大空襲により外務省が焼失したことで天皇・松田共にこの申し出を知ることができなかった。一方、内閣も軍の意向を受けてソ連を和平交渉の仲介役とすることを決定。こうしてバチカンからの申し出は黙殺された。
6月始めにドイツが分割占領されることが決まると、松田は御進講でその旨を昭和天皇に伝えた。その現状を聞かされた天皇は体調不良を訴え、途中で退室してしまったという。6月22日、天皇臨席の会議では戦争を集結することが決定され、近衛文麿元総理がソビエトへの特使に任命される。しかし、松田はソ連を仲介役とした和平については懐疑的な見方を示していた。松田は御進講を通じてアメリカ国内に融和的な論調が存在すること繰り返し天皇に説明していたが、これは天皇を説得することで終戦に導こうとした意図が込められている可能性があるという。そして、ポツダム会談が行われた後の7月26日、松田は最後となる御進講を行う。そこで説明されたのは、ソ連との兼ね合いによりアメリカの無条件降伏に折り合いがつけられる可能性もあるということだった。それから1ヶ月を待たずして昭和天皇はポツダム宣言の受諾を決断。この時までに日本に宣戦布告した国は40以上にのぼる。これは、松田と天皇が構想していた外交戦が日本の完全な敗北となったことを示すものに他ならない。終戦の翌年に死去した松田が残した膨大な資料から読み取れるのは、昭和天皇にとって松田の存在は主体的な判斷を下す上でなくてはならないものだったということだ。戦争の時代において、正確な情報を得ることが如何に重要であるか、松田と天皇の関係が物語っている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2023年8月7日放送 22:00 - 23:00 NHK総合
NHKスペシャル(オープニング)
昨年10月、旧家の屋根裏で発見された昭和天皇と太平洋戦争に関わる極秘資料。それは、宮内省御用掛・松田道一が500回以上にわたって行った昭和天皇への御進講の記録だった。1933年から敗戦までの12年間行われた御進講。天皇が松田の言葉からどのような決断を下したのかAIによる分析を行った結果、見えてきたのは知られざる日本の外交戦だった。今回は1942年のバチカンと[…続きを読む]

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