2023年8月7日放送 22:00 - 23:00 NHK総合

NHKスペシャル
発見 昭和天皇御進講メモ〜戦時下 知られざる外交戦〜

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昨年10月、旧家の屋根裏で発見された昭和天皇と太平洋戦争に関わる極秘資料。それは、宮内省御用掛・松田道一が500回以上にわたって行った昭和天皇への御進講の記録だった。1933年から敗戦までの12年間行われた御進講。天皇が松田の言葉からどのような決断を下したのかAIによる分析を行った結果、見えてきたのは知られざる日本の外交戦だった。今回は1942年のバチカンとの国交樹立や終戦を巡る天皇の決断を探る。

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発見 昭和天皇御進講メモ〜戦時下 知られざる外交戦〜
天皇の御下問 国際情勢への関心は

1933年、当時32歳の青年君主であった昭和天皇への御進講が始まった。講義を担当するのは元外交官の松田道一で、国際協調を重視する姿勢が評価されて天皇に国際情勢を伝えることとなった。当時のヨーロッパではヒトラーが政権を獲得し、日本は満州国承認を巡って国際連盟を脱退。世界からの孤立を深めて行く日本において松田は連盟脱退に批判的な意見を寄せる「最後の英米協調派」であり、その姿勢は「平和主義に則り、極力戦争を避くるを要す」と広田弘毅に伝えた天皇の考えとも合致するものだった。日本が満州国問題で国際社会からの孤立を深めて行く中で、天皇が注目したのが4億人の信者を抱えるローマ・カトリック教会の総本山であるバチカン。昭和天皇は皇太子時代の1921年にヨーロッパを歴訪し、最後の目的地であるバチカンでベネディクト15世と会見した経験を持っていた。第一次世界大戦の集結に尽力したベネディクト15世との会見で昭和天皇は「ローマ教皇は戦争において中立の存在である」と認識し、近づきつつある戦争を終わらせるためにバチカンとの関係を活かせないかと考えるようになる。この時期に行われた御進講で、天皇はスペイン内戦の情勢を度々松田に尋ねていた。天皇はスペイン内戦を始めとした国際的な共産主義勢力の高まりを警戒しており、またそれに付随する自由主義・共産主義・ファシズムの各陣営が対立することを懸念していたのである。

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第二次世界大戦 ドイツ覇権と日本

1939年、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。松田は外務省に出向いては刻々と変わる欧州情勢の情報を集めた。統治権の総覧者である昭和天皇には外交・内政・軍事の情報が政府筋から集まっていたが、松田の御進講はそうしたルートに依らない独自の情報で、昭和天皇は事前に得ていた情報を松田と共有して確認する場として御進講を捉えていたという。そんな中、1940年6月のパリ陥落によりドイツが欧州の覇権国となることがほぼ確実なものとなる。欧州情勢が急変する中で、元来英米協調派であった松田もその外交姿勢を転換させていくことになった。同年9月には日独伊三国同盟が締結され、日本はドイツに接近。対立を深める英米に対抗するため、日本は三国同盟にソビエト連邦を引き込もうと構想し1941年の4月には日ソ中立条約を締結した。

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独ソ戦情報 開戦の決断へ

日本が日ソ中立条約を締結した2ヶ月後、ドイツは突如としてソビエトに侵攻。独ソ戦が勃発する。開戦後もドイツ軍は好調な進撃を続け、現在のウクライナ・キーウ付近にまで迫った。こうした状況下で松田は大島浩駐独大使の分析を元に「8月か9月にはソビエト軍が撃滅されるだろう」と昭和天皇に自身の見通しを伝えた。ドイツが進撃を続ける中で、日本は資源獲得のために南進することを決断。1941年に南部仏印進駐を行うが、これに対しアメリカは対日石油禁輸・在米日本資産凍結という厳しい制裁を課した。この措置に海軍内では早期開戦論が台頭したが、昭和天皇は開戦に慎重な姿勢を崩さなかった。一方、独ソ戦ではドイツ軍がモスクワの間近にまで迫りドイツが優勢であるとの情報が世界中で囁かれる。これはドイツによる情報戦の結果でもあったが、大島浩駐独大使らはそれに気付くことができなかった。「ドイツ有利」とする情勢判斷の中で、1941年11月5日には御前会議が行われる。この会議では対米交渉が行き詰まった場合は開戦とすることが決められ、同時に終戦に向けてバチカンや南米諸国などとの関係を強化することも定められた。昭和天皇が開戦の判斷を下した背景には、松田の御進講により「中立国との関係を強化し、ドイツがソビエトに勝利することで対米戦にも勝ち目がある」と昭和天皇が判断した可能性があるという。この御前会議から1ヶ月後、日本の真珠湾攻撃により太平洋戦争が幕を開けた。

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バチカン和平工作 天皇と中立国

太平洋戦争の最中に行われた御進講で、昭和天皇が特に注目していたのが中立国の動向だった。それは松田にしても同じことで、開戦後に18ヶ国から宣戦布告を受けた日本は中立国との関係を強化すべきだと考えていた。こうした中立国の中でも日本が特に重視していたのがバチカンで、1942年5月に日本はバチカンと国交を樹立する。昭和天皇は「法王庁の反共主義と平和主義は我が国の国策とも重なる」と考えており、中立国であるバチカンが日本の戦争を終わらせる和平の仲介者となることを期待していた。一方のバチカンも日本が保有するアジアの広大な領土におけるカトリック信者の保護を目論んでおり、両者の関係はアメリカの反発を受けても揺らぐことがなかった。しかし、こうした外交の成果とは裏腹にドイツと日本は共に軍事面で大敗を喫し、戦局は大きく揺らいでいく。

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終戦への道 和平をめぐる苦悩

1945年に入ると、昭和天皇と松田は御進講の場で降伏や和平についての会話を交わすことが多くなった。欧州では2月にソ連軍がベルリンに迫る勢いで進撃を続けており、その危機的な状況を耳にした天皇は日本の講話についても考えるようになる。昭和天皇が終戦の道を模索する中で、5月7日にドイツが無条件降伏し、6月には沖縄戦が始まる。本土決戦も間近となる中でバチカンも和平の仲介に動き出す。OSSの諜報員がバチカンを通じて「占領地の還付と陸海軍の武装解除」を条件に講話に応じると伝えてきたのだ。この条件は外務省にも伝えられていたが、東京大空襲により外務省が焼失したことで天皇・松田共にこの申し出を知ることができなかった。一方、内閣も軍の意向を受けてソ連を和平交渉の仲介役とすることを決定。こうしてバチカンからの申し出は黙殺された。

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6月始めにドイツが分割占領されることが決まると、松田は御進講でその旨を昭和天皇に伝えた。その現状を聞かされた天皇は体調不良を訴え、途中で退室してしまったという。6月22日、天皇臨席の会議では戦争を集結することが決定され、近衛文麿元総理がソビエトへの特使に任命される。しかし、松田はソ連を仲介役とした和平については懐疑的な見方を示していた。松田は御進講を通じてアメリカ国内に融和的な論調が存在すること繰り返し天皇に説明していたが、これは天皇を説得することで終戦に導こうとした意図が込められている可能性があるという。そして、ポツダム会談が行われた後の7月26日、松田は最後となる御進講を行う。そこで説明されたのは、ソ連との兼ね合いによりアメリカの無条件降伏に折り合いがつけられる可能性もあるということだった。それから1ヶ月を待たずして昭和天皇はポツダム宣言の受諾を決断。この時までに日本に宣戦布告した国は40以上にのぼる。これは、松田と天皇が構想していた外交戦が日本の完全な敗北となったことを示すものに他ならない。終戦の翌年に死去した松田が残した膨大な資料から読み取れるのは、昭和天皇にとって松田の存在は主体的な判斷を下す上でなくてはならないものだったということだ。戦争の時代において、正確な情報を得ることが如何に重要であるか、松田と天皇の関係が物語っている。

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