明治時代を代表する浮世絵師、楊洲周延は多くの錦絵を描いた。当時、錦絵はビジュアルメディアで、人々は絵を通して宮中へのイメージを膨らませていったという。美子皇后はかなりの愛煙家で、紫煙をくゆらす間は様々な思いも消えていくという詩を遺している。明治20年、皇后は東京慈恵院の設立に際して総裁に就任し、毎年のように慰問に訪れるなど慈善活動に注力した。赤十字社の設立にも関わった他、日清戦争の最中、広島の予備病院を慰問。沼津にある御用邸にはたびたび足を運び、連れてきた女官たちが悪戦苦闘しながら筍掘りをする姿に珍しく哄笑したという。大正3年、沼津にて、美子皇太后は64年の生涯を閉じた。