- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 小平美香
宮中の礼服が長い年月で傷んでいたものの、5年をかけて修復された。この大礼服を着用されていたのは昭憲皇太后で、明治天皇の妃であった。実は洋装が実現したのは明治天皇よりも10年以上も遅く、宮中の舞台裏に迫る。
オープニング映像。
美子皇后(昭憲皇太后)は五摂家の1つ、一条家の出身で、学習意欲旺盛だったという。18歳の時、のちの明治天皇の妃に選ばれた。数カ月後、徳川幕府が滅び、天皇家は京都から東京へと移ることになった。明治天皇は和装から軍服へと改めたが、美子皇后の洋装化が実現したのは14年遅れ、明治19年のことだった。伊藤博文は西洋化推進派で、「政治的な場で女性が和装をしていては人形、置物にしか見られない」と発言。だが、明治天皇は反対で、伊藤の拝謁を避けるまでになった。膠着状態が続くなか、伊藤、梅子夫人と頻繁に面会した美子皇后は洋装化を受け入れる意思を示した。宮中の女官たちも洋装に転換し、明治天皇も受諾。明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布される。その式典に皇后、皇族女性たちはドレス姿で臨んだ。
小平美香さんによると、明治天皇は美子皇后と一緒に馬車を乗ることに躊躇されたといい、皇后の洋装化にも難色を示していたとされる。皇后は控えめな性格だったと言われるなか、国のために洋装化を受け入れるという意思を貫いたことで、天皇の考えも変える大きな力になったという。ドイツに発注した大礼服は一式で約13万円。これに対し、鹿鳴館の総工費は約18万円だった。
美子皇后は洋装化してから逝去するまで、公式の場で和装の姿を見せることは一度も無かったという。文化財の保存、修復に取り組むモニカ・ベーテさんは美子皇后の大礼服を修復するプロジェクトでリーダーを務めた。大礼服はヨーロッパ製と考えられてきたが、生地の補強材として使われた和紙に日本語が記されていた他、小林綾造が大礼服の生地を作ったという史料などを勘案すると、ベーテさんは大礼服は日本製と分析する。
富岡製糸場が完成した翌年、美子皇后は和装姿で訪問した。明治初期、生糸は輸出額の約半分を占め、外貨の収入源だったという。工女として働いていた和田英は皇后の訪問に感嘆したといい、後に長野の製糸場で指導者を務めた。美子皇后は新聞の号外に掲載された文書で、国民一丸となった殖産興業に言及している。
明治時代を代表する浮世絵師、楊洲周延は多くの錦絵を描いた。当時、錦絵はビジュアルメディアで、人々は絵を通して宮中へのイメージを膨らませていったという。美子皇后はかなりの愛煙家で、紫煙をくゆらす間は様々な思いも消えていくという詩を遺している。明治20年、皇后は東京慈恵院の設立に際して総裁に就任し、毎年のように慰問に訪れるなど慈善活動に注力した。赤十字社の設立にも関わった他、日清戦争の最中、広島の予備病院を慰問。沼津にある御用邸にはたびたび足を運び、連れてきた女官たちが悪戦苦闘しながら筍掘りをする姿に珍しく哄笑したという。大正3年、沼津にて、美子皇太后は64年の生涯を閉じた。
美子皇后は学習意欲旺盛で、岩倉使節団が欧米を歴訪する際、訪問国の王妃の様子を調べて欲しいと命じていた。また、新聞や雑誌などにも目を通し、海外の情報を収集した。また、国民に寄り添い続け、女性の手本となるべきと自覚していたという。
「歴史探偵」の次回予告。