- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
今回、課題が山積していたなかで改革を進めた明治新政府にスポットを当てる。
- キーワード
- 明治維新
オープニング映像。
戊辰戦争において、各藩は政府に臨時で軍事力を提供していた。殊に薩摩藩は国内最大級の火薬製造所を有し、戦後も軍事力強化を図った。長州藩では高杉晋作が組織した戦闘部隊、奇兵隊の隊士が除隊となり、藩への不満をつのらせた。反乱を起こすも、武力で鎮圧された。また、各地の藩は明治になっても独自に紙幣を発行し、明治新政府が発行する太政官札と混在。税収面でも問題があった。竹本知行教授によると、藩が持っている軍事力を解体し、権限、権威、権力を明治新政府に集中させる必要があったという。
河合敦氏は「明治維新当時の日本は列強諸国の圧力にさらされていて、国が一つにまとまらないと対抗できなかった」と概説した。一方、戊辰戦争などで活躍した功労者には賞金が各藩へ支給されたが、約800億円が毎年、半永久的に配られたという。佐藤二朗は「がんじがらめでどうしようもない」と吐露。
紀州藩(和歌山藩)では綿織物が一大産業として発展し、軍靴を作るための皮革産業、弾薬の製造も隆盛した。同藩では武士だけでなく庶民も徴兵し、武士の特権排除も図った。明治政府は紀州藩の事例を全国レベルで行おうとし、廃藩置県を考案。藩を解体して新しく県を設置し、国の命令を全国に行き渡らせるという方策。長州藩の木戸孝允、山縣有朋、井上馨は推進派の一方、西郷隆盛、大久保利通は慎重派だったとされる。だが、文献などによると、西郷は山縣から説得されて考えを改め、大久保も同意に至る。提議から発令まで要したのは10日だった。米沢藩主だった上杉茂憲は「朝廷のために忠義を尽くすことを希望する」と藩士を説得するなど、大きな抵抗は起きなかったという。
佐藤二朗は廃藩置県が提議されてから発令されるまでの電光石火の動き、廃藩置県が断行されても各藩の間で大きな反発が起きなかったことに驚いた。河合敦氏によると、ほとんどの藩は財政難で、明治政府は借金を肩代わりすると約束していた。また、反発に備え、軍事力も確保していた。廃藩置県で中央集権化が進み、明治政府の課題は解決へ向かっていった。ただ、武士たちは失職し、時代に適応できない人たちが続出。
明治政府はロシアを警戒し、士族たちを北海道へ移住させ、防衛と開拓を担わせながら、生活を保障した。また、警察制度により、約3000人の士族が職を得たとされる。一方、政府は士族たちの特権を削ぎ落とすことを徹底。すると、各地で士族による反乱が起き、西南戦争が勃発した。ただ、政府側につく士族たちもいて、落合弘樹氏は「氏族同士のぶつかり合いが西南戦争だった」と話す。西郷隆盛は自刃し、西南戦争は終結した。
西南戦争では新時代を受容した武士と受け入れられなかった武士が激突した。その後、士族たちは自由民権運動にも参加。河合敦氏は「武器に代わり、言論を用いて政府に向かっていく時代がやってきた」と説明。佐藤二朗は「過激な方法の裏では犠牲になる人がいる。そういう人たちも絶対に見捨ててはいけない。今にもつながる半永久的な課題」とコメント。
「歴史探偵」の次回予告。