野見山暁治は2014年に文化勲章を受賞した戦後の日本を代表する洋画家。昨年に102歳で他界したがずっと背負い続けてきたものがあった。それは長い戦後で野見山さんは昭和13年に東京美術学校に入学し、戦況が悪化し多くの同級生たちが戦場に駆り出されていった。野見山さんも卒業後に満州へ出征したが肋膜炎を患って日本に送還され終戦を迎えた。そして多くの同級生や仲間が戦死したことを知った。野見山さんは50代の半ばから、突き動かされるように彼らの作品を探し始めた。S嬢と呼ばれる作品は野見山さんの同級生の 大倉裕美さんの作品。大倉さんは、フィリピンのルソン島で戦死したが野見山さんが大倉さんの実家を訪ねると迎えてくれたのは年老いた母親だった。息子の死を無念に感じていたというが野見山さんは帰り際にオーバーをとって帰る所、その母親がオーバーを着させてくれたというがその手が離れなかったという。熱い思いに遺族宅を回る決心をした。野見山さんとともに作品を収集し後を引き継いだのは作家の窪島誠一郎さん。画家の夭折の画家の作品を集めた信濃デッサン館の館主でもあった。
全国を歩き回った窪島さんは、1997年に無言館を閉館させた。彼らの作品を集めた当初に野見山さんの印象は、絵はつまらないと感じたが日にちが経つと気持ちが変わっていたという。絵は展覧会で出すようないい絵を描こうという気持ちはないがそれよりも見たいものをじっとみていたいという、絵というものはこういうものだと感じたという。
全国を歩き回った窪島さんは、1997年に無言館を閉館させた。彼らの作品を集めた当初に野見山さんの印象は、絵はつまらないと感じたが日にちが経つと気持ちが変わっていたという。絵は展覧会で出すようないい絵を描こうという気持ちはないがそれよりも見たいものをじっとみていたいという、絵というものはこういうものだと感じたという。
住所: 長野県上田市大字古安曽山王山3462