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「無題」 のテレビ露出情報

直島は衰退の一途を辿っていた。高度経済成長期、瀬戸内海沿岸に次々と工場が建ち、美しかった海は死んだ魚で溢れた。島には向上の煙が立ち込め草木が育たず、はげ山と揶揄された。直島で育った奥田俊彦は直島出身だということを隠していた。工場だけでは島に未来はないと感じ、町は福武書店に再建を託した。どうしたら再建できるか社長の福武總一郎は考えた。コレクションしているアートを使い、美術館と一体化したホテルを作れないか。こうして1992年、アートホテルが開館した。秋元雅史はホテルの成功に人生の再起をかけていた。秋元雅史はかつて路上で独特なパフォーマンスを行っていた芸術家。代表作「ザ・スコップマン」。銀座の目抜き通りをスコップで叩き通行人の反応を追い求めていた。10年続けても、社会からの反応はなく芸術家の道を諦めアルバイトで食いつないでいた。そのとき、アートホテルの学芸員募集の見つけた。秋元は観光客を呼びこむべく意気込んだ。最先端の現代アートを持ち込めば話題になるはずだと、かつてアート制作で競い合った仲間に声をかけ展覧会を開催。奇抜な作品を次々に展示した。しかし客は来なかった。次は世界のアーティストを呼び新作を制作してもらった。それでも3部屋も埋まらず、島の反応も冷ややかだった。オープンから4年、直島ホテル事業は社員3人にまで縮小された。荒む秋元の唯一の癒やしは、島民に長く愛されるうどん屋さんの、うどんだった。秋元はふと直島でしか作れないアートを生み出せないかと思った。そんな時、ホテルに町役場から民家を買ってもらえないか?と電話が来た。笠原良二はこれはチャンスだと思った。島の中心部でもアートを展開できないか役場に相談していた矢先だった。笠原は秋元を呼び、その家に向かった。築200年のボロボロの民家。中も荒れ果て高齢の家主の手に負えなくなっていた。だがそこは島民に角屋と呼ばれてきた島のシンボルでもあった。秋元は、直島でしか作れないアートが作り出せると思った。

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