- 出演者
- 有馬嘉男 森花子
森花子と有馬嘉男が直島にやって来た。人口は2900人の小さな島だが年間70万人の観光客が世界中から訪れる。直島は現代アートの島。大竹伸朗が手掛けた「はいしゃ/舌上夢/ポッコン覗」を紹介した。今回は島とアートという不思議な組み合わが起こした奇跡の物語。
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- はいしゃ/舌上夢/ポッコン覗大竹伸朗
オープニング映像。
直島は衰退の一途を辿っていた。高度経済成長期、瀬戸内海沿岸に次々と工場が建ち、美しかった海は死んだ魚で溢れた。島には向上の煙が立ち込め草木が育たず、はげ山と揶揄された。直島で育った奥田俊彦は直島出身だということを隠していた。工場だけでは島に未来はないと感じ、町は福武書店に再建を託した。どうしたら再建できるか社長の福武總一郎は考えた。コレクションしているアートを使い、美術館と一体化したホテルを作れないか。こうして1992年、アートホテルが開館した。秋元雅史はホテルの成功に人生の再起をかけていた。秋元雅史はかつて路上で独特なパフォーマンスを行っていた芸術家。代表作「ザ・スコップマン」。銀座の目抜き通りをスコップで叩き通行人の反応を追い求めていた。10年続けても、社会からの反応はなく芸術家の道を諦めアルバイトで食いつないでいた。そのとき、アートホテルの学芸員募集の見つけた。秋元は観光客を呼びこむべく意気込んだ。最先端の現代アートを持ち込めば話題になるはずだと、かつてアート制作で競い合った仲間に声をかけ展覧会を開催。奇抜な作品を次々に展示した。しかし客は来なかった。次は世界のアーティストを呼び新作を制作してもらった。それでも3部屋も埋まらず、島の反応も冷ややかだった。オープンから4年、直島ホテル事業は社員3人にまで縮小された。荒む秋元の唯一の癒やしは、島民に長く愛されるうどん屋さんの、うどんだった。秋元はふと直島でしか作れないアートを生み出せないかと思った。そんな時、ホテルに町役場から民家を買ってもらえないか?と電話が来た。笠原良二はこれはチャンスだと思った。島の中心部でもアートを展開できないか役場に相談していた矢先だった。笠原は秋元を呼び、その家に向かった。築200年のボロボロの民家。中も荒れ果て高齢の家主の手に負えなくなっていた。だがそこは島民に角屋と呼ばれてきた島のシンボルでもあった。秋元は、直島でしか作れないアートが作り出せると思った。
アートについて西忠彦は「美術っていう意識で見るわけじゃないですか、これが美術なのかな?っていうのが正直な気持ち」などと話した。秋元雅史は「蓋を開けてみたらこれは厳しいなという印象は持っていた」などと話した。角屋は地元ではとても有名な存在だった。
1997年5月、角屋再生プロジェクトがスタートした。問題はどのアーティストに作品を任せるか。福武總一郎に相談するとある人物の名前が上がった。それが宮島達男だった。宮島は秋元と縁があった。同じ東京藝術大学出身でかつて共に切磋琢磨した同士。宮島は時をテーマにした作品が得意。宮島が島に訪れ「ここで作品を作るのは不可能だ」と秋元に伝えた。秋元はこの島に魅力はあると食い下がった。秋元は宮島に直島のよさを語り続けた。宮島はそこまでいうならやってみようと、2人は毎日、角屋に通い続けた。残暑が厳しいある日、秋元らのもとに、お茶をもって島民がやって来た。宮島はアート制作に島民にも参加してもらうことを考えた。角屋の中にLEDで輝くデジタルカウンター125台を設置。そのスピードを島民たちに設定してもらう。200年のときが受け継がれてきた空間で、見る人は島民たちの命を感じてくれるはずだ。呼びかけると5歳から95歳の島民125人が集まってくれた。発足から1年、角屋が蘇った。秋元は島の魅力をアートで引き出す道を見つけた。次に考えたのは直島を主役にしたアート作品の展開だった。島にあるものをいかしアートで光を当て続けた。すると自分たちだってなにかできるはずだと、堀口たちが自主的にボランティアガイドの会を結成した。島民とアートの融合は世界中から注目を集め、観光客が徐々に増え始めた。だが瀬戸内海は大きな問題を抱えていた。直島から船で20分の豊島。戦後最大級の産業廃棄物不法投棄物事件が発覚。環境汚染が日本中に報道され、ゴミの島と呼ばれた。10年かけて産廃の処理をするもレッテルは消えることはなかった。福武はアートによって汚名を返上できないか考えた。
今、みなさんにとってアートとは?と聞かれ石川万里子は「船に並んでたら、後ろで、きょうは楽しかったってカップルの声が聞こえた。それがすごい嬉しかった、それがアートに繋がっていると思う」などと話した。秋元雅史は「アートで目立ちたいとか、評価されたいっていうこと以上に、直島を面白い場所にしようって思ってた」などと話した。
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ゴミの島、豊島でもがき苦しんでいたのはみかん農家の山本彰治だった。豊島みかんと銘打ち、手塩にかけたみかんが、不評被害にあっていた。問屋から豊島の名前を消してくれと言われた。多くの観光客が訪れアートの島と歩み始めた直島。一方、豊島はゴミの島のレッテルが消えず衰退が止まらなかった。山本に豊島にも美術館ができるという知らせが届いた。山本は美術館のコンセプトに心が踊った。棚田を舞台にした美術館。美術館開館まで1年、棚田は荒れ放題となっていた。1人しぶとく米作りを続けてきた曽我晴治は、棚田の再生は不可能だと言い放った。あれた棚田は東京ドーム2個分の広さ。再生には最低でも3年はかかる。それでも山本は引かなかった、毎日、曽我の家に行き頭を下げ続けること1週間。曽我が折れた。協力を呼びかけると次々に島民が名乗りを上げた。総勢17名で田んぼを再生していった。1年後、棚田が蘇った。そして豊島美術館が完成した。2010年10月、豊島美術館オープンの日、船は溢れんばかりの人を乗せて港にやって来た。この年、人口1000人の豊島に17万人が訪れた。
秋元雅史は「アート作品って、あらかじめ意味が作品の中に込められているって思いがち、実際作家は込めているけど、それを膨らませて成長させるのって、それを見てる側とか大事にしてる側なんですよね」などと話した。かつてゴミの島と呼ばれた豊島には若い移住者が来るようになった。奥田俊彦は「はげ山の島が美術の島になった。人に紹介するのに香川県の直島ではなく日本の直島」などと話した。
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2025年4月、瀬戸内国際芸術祭 2025が開催。特別に展示される作品を見ようと、世界中から100万人が訪れる。直島から始まったアートによる島の再生は今、瀬戸内海の11の島々に広がっている。人口が200人を切った男木島にはアートをきっかけに、移住者が急増。休校していた小中学校が再開し子どもたちの声が戻った。みかん農家の山本彰治さん、みかんに故郷の名を取り戻した。
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