- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 松崎郁洋 後藤健吾 北里有紀
熊本の黒川温泉は思考を凝らした露天風呂を30軒の旅館が競い合う。癒やしを求めて年間30万の宿泊尺が訪れる。だがかつてここは、旅行客に顧みられることもない寂れた温泉地だった。こんな山奥に希望などないと諦めていた若者たち。彼らが出会ったのは恐るべき執念を秘めた変わり者。田舎には田舎の生きる道があることを証明してみせた。
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- 黒川温泉
オープニング映像。
有馬嘉男が黒川温泉にやって来た。黒川温泉はもともと、寂れた温泉地だった。そんな故郷を生まれ変わらせた逆転の物語。
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1970年代、日本は空前の旅行ブームに湧いていた。だがそのブームは熊本・南小国町の黒川温泉には届かなかった。観光客を呼ぼうにもあまりにも山奥過ぎた。もともとは周辺の農家が通う湯治場。2代目の松崎郁洋さんの家も、もともと農家。稼ぎの足しにと父が旅館を始めたが子供心に嫌だった。当時の黒革は座敷での飲み会目的が多く、客は温泉には目もくれない。家業は継ぎたくないと福岡の大学に進んだがオイルショックで就職難。仕方なく地元に帰った。こんな仕事じゃ結婚もできないと居酒屋で愚痴を言う日々だった。愚痴の相手は幼馴染の後藤健吾。健吾も意にそぐわず地元に帰った1人だった。憂さ晴らしに旅館の2代目たちは、ソフトボールに明け暮れたが気は晴れなかった。ソフトボール仲間の小笠原和男には地元に1つ、気になる旅館があった。閑古鳥が鳴く黒川で、その宿だけ唯一客が途切れない。主は後藤哲也。年配の同業者たちが眉を潜める変わり者で両親も呆れるばかり。しかし哲也に代替わりしてから客が増えていった。ある日、哲也から客の送迎を頼まれた小笠原和男は、秘密を探るチャンスだと思った。玄関から部屋まで空気が違って見えた。驚いたのは風呂だった。風呂は洞窟風呂と名付けられていて、哲也の手作り。さらに当時、他の旅館にはなかった露天風呂もあった。哲也は20代の頃から、京都などをめぐり、庭や伝統建築を独学してきた。哲也の行き着いた答えは本当の田舎であること。田舎には人を癒す力がある。それを味わえる究極の風呂を作ろうとノミと金槌で10年かけて、裏山を掘り洞窟風呂を作った。小笠原が頼むと、哲也は風呂づくりのコツを惜しげもなく教えてくれた。1年後、教え通りに風呂を作ると、客足が伸びた。その様子に松崎と後藤は驚き2人も温泉を作ろうと思った。松崎は5回目の見合いでついに結婚が決まり、負けられない理由があった。2代目たちは次々にベビーラッシュ、暮らしのためになんとしても客を呼び込むしかなかった。
かつての黒川温泉について松崎郁洋は「土曜日にお客さんが半分集まればいいくらい。あとは1日、2~3人しかいなかった。個性がなかった」などと話した。後藤健吾は「温泉はいっぱい溢れて、川にどんどん流してる。その温泉を利用していない。ただ宴会のお客さんとか老人会のお客さんに来てもらって、その日その日を凌いでいるって感じの旅館街だった」などと話した。
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後藤哲也は各旅館にふらりと現れては、手取り足取りコツを教えてくれた。それまで周囲から理解されることのなかった哲也。誰かに頼られるのは初めてのことだった。健吾は哲也にトタン屋根をなんとかしたいと相談。すると教えてくれたのは木を植えて田舎の雰囲気を作ることだった。哲也は一緒に山に入り木の選び方から教えてくれた。健吾の旅館は年を経て自然の木々に囲まれるようになった。組合も刷新した。哲也は2代目たちに「1軒では土地は光らない。皆が結束して磨けば風情が生まれる」と教えた。2代目たちは木を植えることから始めた。1年また1年、寂れた山村の景色が緑で彩られていった。次に考えたのは露天風呂を皆でアピールすること。しかし2軒の宿だけ露天風呂が作れなかった。ある日、松崎の妻は久美子、露天風呂がなくてもお風呂が入れるなら泊まってくれる。お風呂巡りしたらと呟いた。どこの宿の風呂にも自由に入れる手形を作れば露天風呂を持たない宿にも客がきてくれるはず。松崎は会合でこのアイデアを切り出した。だが受け入れられなかった。それでも久美子は夫を励まし続けた。夫婦で何度も作戦を練った。松崎は手形の効果を根気よく説得していくと少しずつ空気が変わっていった。哲也が「進むのが一緒なら苦労するのも一緒だ」と言った。好きなお風呂に3つ入れる入湯手形の導入が決まった。効果はなかなか現れなかった。資金を出し合い広告もだした。するとじわじわと客が増え始めた。初年度6000枚だった手形の売上は、5年後には6万枚に増加。年間20万人の宿泊客が訪れるようになった。心がけたのは町全体でもてなすことだった。
後藤哲也さんの「一軒では土地は光らない」「田舎の雰囲気にこだわれ」という言葉を紹介。松崎郁洋さんは「まさにその通り。一軒は弱い。でもまとまったら強い。助け合った結果がお客さんが来たという形がある」などと話した。
2003年、黒川温泉の宿泊客は40万人近くに達していた。日帰り客も合わせ120万人。旅館は手が回らなくなった。手形を買ったのに風呂に入れなかったというクレームも殺到。まとめ売りを止めると一方的だと更に批判を浴びた。宿泊客は年に1万人ものペースは減っていった。そんな中、久美子にガンが見つかり熊本市の病院に入院になった。見舞いに駆けつけた長女の祐子は、大学卒業後は熊本市内のホテルで働いていた。そのとき、見つけたのは母が病床で結婚してからの日々を綴った手記だった。手記を見た祐子は旅館を継ぎたいと思った。同じ頃、健吾の娘、麻友も大学院を辞め家業を継ぎたいと地元に帰ってきた。気がつけば3代目世代となる子どもたちが、続々と黒川に帰っていた。リーダーとなったのは年長格の北里有紀だった。有紀は黒川の先行きに焦りを感じていた。手形で卓球をするイベントなど連発したが手応えはなかった。ある日、有紀は哲也に「1日1回自分の旅館を正面から眺めなさい」と言われた。2016年、熊本地震が発生し黒川から客が消えた。地域全体で収入が途絶える初めての事態だった。北里はできることをやろうと皆に呼びかけた。一致したのはいまこそ地元を学ぼうということだった。アイデアをぶつけ合う中で気づいたことがある。それは大事なものを受け継いでいたこと。先代が築き上げたものは景観とか手形とかではなく、地域でやっていくんだってことを当たり前にしてくれたことだった。コロナ禍でさらに3年客足が遠のいた。それでも励まし合い地元の学びを続けた。コロナ明け、客は以前と同じように戻ってきた。いま宿泊客は年30万人。小さな温泉地は満室が続く。北里はいまも教えの通り、自分の旅館の正面に立っている。
熊本地震、コロナ禍について北里有紀は「その1日を境に全くお客様がいらっしゃらなくなったってことは、私たち世代にとって初めての経験だったので、途方にくれた。共有できる仲間がいたから心強かった。何かをしてまた盛り上げたいって皆とずっと話してた」などと話した。いやいや継いだ旅館、いま振り返ると?と聞かれ後藤健吾は「我々はラッキーだった。後藤哲也さんという人がいて」などと話した。
春を迎えた黒川温泉。かつて皆で植えた木々が今年も訪れた客を迎えている。松崎郁洋さんと久美子さんは大家族になった。娘の祐子さんも黒川で母親になった。黒川の礎を築いた後藤哲也さんは86歳で亡くなるまで、町の木々を手入れし続けた。その思いはいまも受け継がれている。季節ごとに結束して町の景観を整えている。後藤哲也さんは「黒川は僕が生まれた故郷。その故郷を外から訪れた人が褒めてくれる。人生で最高の喜びじゃないかと思うちょります」という言葉を残している。かつての寂れた温泉街には笑顔が溢れている。
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