- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 岡田匡史 黒須明英 田村貴史 本村泰一
人工衛星を宇宙へと運ぶロケットの打ち上げ技術。宇宙からの衛星通信が正確無比なGPSや自動運転を実現。戦場を映し出す観測衛星からのリアルタイムの画像情報は戦争の行方を左右する。今から70年前、日本は平和利用に限ってロケット開発に乗り出した。世界から遥かに遅れたスタートだった。それから40年、純国産ロケットH2ロケットの開発に成功し世界に肩を並べた。2020年、ロケットは国や企業が打ち上げ機会を奪い合う市場競争時代を迎えた。日本ではH3ロケットの開発が始まった。これは日本の未来をかけ難攻不落の革命エンジンに挑んだ物語。
オープニング映像。
有馬嘉男らの挨拶。今回、有馬嘉男と森花子は特別な許可を得て、みちびき7号機の開発現場を見せてもらった。みちびき7号機は今年後半、H3ロケットで打ち上げられる予定となっている。みちびきは位置情報を教えてくれる測位衛星。これまで日本はアメリカの衛生に頼ってきた。みちびきが打ち上げられると日本は自前で位置情報を得ることができるようになる。
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- みちびき7号
1994年、H2初号機の打ち上げに成功し日本の技術者たちは喜びを爆発させた。その輪の中に大学を2年留年し、宇宙開発事業団に入社した苦労人がいた。それが岡田匡史だった。岡田は少年時にNASAのアポロ11号の打ち上げに心を奪われロケットエンジニアになること目指した。東京大学航空学科に進学し、ハンググライダーにのめり込んだが事故を起こし、リハビリに2年を費やすことになった。絶対安静で大学は留年。看護主任だった柳井操は焦る岡田を見守った。リハビリが終わり、退院する岡田を柳井は駅まで見送ってくれたという。助かった命を岡田はロケット開発に注ぎ込んだ。40代に岡田はマネジメントを学ぶためNASAに送られた。派遣の理由はJAXAが開発力の低下を危惧したためだった。H2は5号機、8号機とエンジンが故障。わずか5年で運用終了となった。日本はH2Aロケットを開発。信頼性は高まったが打ち上げ価格は1回100億円。国際市場では戦えなかった。ちょうど同じ頃、ロケットエンジンの国際学会で世界が驚く発表があった。発表したのはJAXAでエンジンの研究を行ってきた黒須明英。エンジンを爆発から守る画期的な燃焼方式「エキスパンダーブリードサイクル」をぶち上げた。エキスパンダーブリードサイクルの研究はJAXAと三菱重工が共同で進めてきた。三菱重工の田村貴史もこのエンジンに夢を託していた。田村は発電装置を作っていたがどうしてもロケットに携わりたいと猛アピールして移動を果たした。2008年、ロケット市場に異次元の嵐が到来。民間企業がロケット開発に成功した。スペースXを創業したのはイーロン・マスク。ロケットの価格破壊を目指してNASAのエンジニアをスカウトして6年。2010年には日本のH2Aとほぼ同じ能力のファルコン9を開発。打ち上げ価格は50億円。世界の衛星打ち上げを格安で受注し一気に技術を飛躍させる戦略だった。岡田は日本の宇宙開発計画を政府と交渉していた。日本が新型ロケット開発を決定したのは2013年。プロジェクトマネージャーに指名されたのは岡田だった。打ち上げ目標は2020年度。世界の市場に売り込むには性能、信頼に加えコストダウンが欠かせない。岡田は「エキスパンダーブリードサイクル」にかけた。構造がシンプルで高い安全とコストダウンが見込める。メインエンジンはLE-9と命名された。開発主体はJAXAと三菱重工。150社以上が加わる巨大開発が一気に動き始めた。
H3ロケットは高さ57m、重さ422t。ロケットの殆どは燃料タンク。積み荷の人工衛星は最上層部にある。ロケットはメインエンジンとロケットブースターで上昇。ロケットブースターは燃焼が終わると切り離され、人工衛星を守っているカバーも分離。役目を終えたメインエンジンと燃料タンクは切り離される。ここからは第2エンジンでさらに上昇。最後に人工衛星を軌道に投入する。岡田匡史は「まさか自分が、プロジェクトマネージャーを務めるとは思ってなかったので不思議感のほうが強かった」などと話した。H3ロケットの目標はH2ロケットの1.4倍の推力。コストは半減の50億円。打ち上げ準備の日数も半分。
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- H3ロケット
2014年、開発スタート。JAXAが練り上げた基本使用は三菱重工へ送られる。ここでパーツごとの図面に落とし込み試作機を製造する。田村らはスパコンでの予測を繰り返し製造前に不具合の芽を潰していった。3年後、LE-9の試作機が種子島に運び込まれ燃焼試験が行われた。LE-9には重さ400トン以上の機体を高度200kmまで運ぶため300秒の燃焼が求められる。燃焼試験も終盤を迎えた2020年の5月末、試験後、エンジンの周辺に何かがこすれたような金属の粉が落ちていた。不具合の場所はエンジンの要であるターボポンプだった。問題が起きたのはタービンの羽根で亀裂が生じていた。原因を分析すると、タービンを高速回転したときに生じる振動だということが分かった。岡田は打ち上げを延期し来年度にするという苦渋の決断をした。
岡田匡史は「ロケットエンジンの中が見え、これはダメだなって観念するしかなくなった」などと話した。
メインエンジンで完成の目処が見えない。この燃焼方式を提案した黒須は責任を感じていた。JAXAからターボポンプ開発を委託されていたのは三菱とライバル関係にあるIHIだった。チーフの本村泰一は自分たちの部署が開発全体の足を引っ張っている焦りを感じていた。基礎からターボポンプを設計したのは先輩の水野勉。だれもが認めるターボポンプの鬼だった。しかし水野は突然の病で亡くなった。本村泰一は水野に後を頼むと言われていた。ターボポンプの振動はどうしても収まらない。異例のテコ入れ策としてJAXAの黒須と三菱の田村がIHIの機密エリアで検証に加わっていた。狙った振動を抑えると別の振動が起きる。ついに約束の1年が過ぎた。2度目の打ち上げ延期が決まった。この頃、スペースXが驚異的な加速を見せ始めていた。開発中、幾度も爆発事故が起きたがそこで得た知見をいかして乗り越えていった。年間の打ち上げは日本の目標を優に超え信頼性も向上させていた。
振動問題について黒須明英は「やってる環境がすごい特殊で、世界の論文を調べてもどこにも乗ってない。難しい領域に足を突っ込んでるなって感じがした」などと話した。田村貴史は「次こそはいけるだろうとおもって毎回挑んでいた。だから結果がたのしみだった。苦しいとおもってたけどアイデアは尽きていなかったので早く次の試験やりたいと思ってた」などと話した。
エンジン開発という果てなき戦い。黒須はわからないなりに開発すると決めた。田村もどんな事態になっても次の改良案だけを考え続ける心に決めた。開発のさなか母・突然の病で亡くなった。黒須、田村、本村たちは振動を抑え込む最後の作戦を考えた。名付けて「4本の矢」。0の矢は現状のマイナーチェンジ。1の矢は本命。2の矢は設計を大きく変更。3の矢も設計を大きく変更。無理なスケジュールを工場に持ち込み、絶句されたのは本村の上司・三原礼だった。それぞれの矢を試す燃焼試験が始まった。0の矢は折れた。1の矢も折れた。2の矢、3の矢は設計に1年はかかる。黒須らは打てる手を試し続けた。59回目の燃焼試験で上手く行った。この時試したのは0の矢と1の矢に工夫をこらした案だった。打上への最終段階。メインエンジンを機体に取り付け、だいち3号がロケットの最上部に格納された。2023年3月7日、H3ロケットは天空に舞い上がった。しかし絶対の信頼を誇る第二エンジンが着火しなかった。
岡田匡史は「何が起きたかわからなくて呆然としてた。受け止めるのに時間がかかった」などと話した。黒須明英は「人間って本当にショックなことがあると無言になることがわかった」などと話した。
2023年3月7日、打ち上げが失敗した夜、岡田の携帯に瀕死の重症を負い看護してくれた柳井から突然メッセージが届いた。退院して40年、岡田の父が近況を柳井に知らせていた。全国からも続々と寄せ書きや励ましが届いた。岡田はその1通1通に直筆で返事を書いた。信頼されていた2段エンジンでなぜ故障が起きたのか、起こり得るすべてのシナリオを荒らし直した。お役に立てればと名乗りを上げるものがいた。打ち上げ失敗で失われただいち3号の開発者たちだった。1000回以上の試験をして極めて特殊な条件で点火器が不具合を起こす可能性を見出し全てに対策を打った。この1年で16回の燃焼試験を行い設計を磨き抜いた。2024年2月17日、H2ロケット2号機の打ち上げが行われ見事成功した。
本村泰一は亡き先輩・水野のお墓の前で、動画を流し報告したという。もう一回同じことやって下さいといわれたら?という質問に黒須明英は「いやちょっと。体が持たないかもしれない」などと話した。田村貴史は「次はもうちょっと上手にやりますよ」などと話した。H3ロケットの目標はまだ道半ばだという。
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- H3ロケット
日本の基幹ロケットH3は4機続けて打ち上げに成功。世界の市場が注目するロケットとなった。メインエンジンを開発した黒須は、あの日、子どもからもらった手紙を今も大切に保管している。岡田はH3の成功を見届けプロジェクトマネージャーを退いた。打ち上げ後、岡田は大分・別府へ向かった。事故から40年、当時の看護師たちが打ち上げ成功を祝ってくれた。
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- H3ロケット5号機
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