1867年12月9日、薩摩藩を中心とした6000もの大軍が京都御所を包囲した。小御所内では徳川慶喜の処遇について決める会議が開かれ、明治天皇も出席。小御所は公家、大名しか入れない格式高い場所で、薩摩藩士だった大久保利通は距離をとって会議の行方を見守っていた。だが、記録によると、大久保は部屋の中央へと進み、徳川に恩義がある山内容堂に反論を加える。御所の中枢は薩摩藩士たちが掌握していたため、容堂は影で恫喝されていたといえる。そして、容堂が沈黙し、慶喜は明治新政府から排除されることになる。
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