焼け野原となった日本では、人々は生きることに必死だった。学生野球の聖地だった神宮球場も、戦前の姿を失っていた。マッカーサー率いるGHQが接収し、日本人の使用を認めなかった。そこでライバル同士だった早稲田大学野球部の相田暢一と慶應義塾大学野球部の水野次郎が立ち上がり、神宮球場の使用許可を求めGHQに直談判に向かった。早稲田大学野球部OBの亀田健によると、相田は戦争が終わったら野球ができるようにボールとバットを大量に野球部の寮に蓄えていたという。終戦からわずか3ヶ月後、早慶戦の復活が決まった。集まったのは4万5千人の大観衆。「最後の早慶戦」の選手は4人出場し、延長線の末慶應義塾が勝利した。当時を知る安井弘は、「希望になっていた。打ちひしがれた中で、スポーツって力が湧く」などとコメントした。