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「旧 三井工業学校」 のテレビ露出情報

現在、「連続テレビ小説 あんぱん」を手掛けている中園ミホ。あんぱんでは戦争に翻弄される人々の姿が描かれている。中園の母親・村上緑も戦争によって家族の幸せを奪われた人だった。まずは母方のルーツを辿る。もっとも古い戸籍を頼りに訪ねたのは熊本県荒尾市。明治日本の産業革命遺産「三池炭鉱 万田坑」があった地域で当時日本最大の炭鉱だった。村上家は代々この炭鉱で働き、明治41年に中園の祖父の進が誕生。村上家の次男として生まれた進は16歳で地元の三井工業学校へ進学、機械設計など最先端の技術を学んだ。卒業後、進は繊維会社に就職。絹に似せた布製品のレーヨンを生産していた。昭和8年、進むは広島で出会った久江と結婚。その年に長女の緑が誕生した。昭和16年、太平洋戦争が勃発。昭和19年、36歳の時に進は招集された。10歳になった緑や家族を残し戦地へと向かった。進が配属されたのは米軍の迫る沖縄。航空機をフォローする役目を担う「風部隊」に加わった。当時沖縄最大の飛行場だった読谷飛行場で任務にあたっていたが、昭和20年4月、米軍が沖縄に上陸すると猛攻を受け、徐々に南へと撤退。戦死者を出しながら沖縄本島の最南端・摩文仁にたどり着いた。防空壕の中で死と隣り合わせの日々を過ごした進は運良く生存したが、風部隊のほとんどの隊員は戦死した。終戦後、復員した進は福岡で家族と暮らし始める。進は以前と人が変わったようになり酒に溺れたが、女学校に通う年になった緑は気丈に振る舞っていた。しかし昭和25年、わずか37歳で頼りだった母の久江が結核で死去。まもなく進も昭和27年に死去、44歳だった。両親を失った緑は当時18歳。希望していた進学は諦めざるを得なかった。知り合いを頼って上京しモデルなどのオーディションを受ける日々を過ごしたという。そこで声をかけてきたのが後の夫となる中園弘光だった。

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