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「立花美哉」 のテレビ露出情報

スポーツ・教育コメンテーターである武田美保が「3つの五輪と5つのメダル」をテーマに講演を実施。武田は1984年のロサンゼルス大会ではシンクロが種目に選ばれ、自分も五輪に出場するためにシンクロを始めたなどと語った。武田はより具体的な目標を掲げるようになったのは1988年に開催したソウル大会のころであり、当時のシンクロ会の大スターであった小谷実可子に刺激され、自分が20歳で開催する五輪に出場することを決め、1996年のアトランタ大会に出場することができ、銅メダルを獲得したなどと明かした。武田はアトランタ大会は夢が叶った一方で映像も見たくないほど後悔が残った大会でもあり、当時は代表メンバーにはギリギリの順位で入っていたため自分に全く自信が持てないまま本番も迎え、演技を終えた瞬間に思ったのは「やっと大会が終わった」であり、当時のコーチからも銅メダルに値しない選手がいると言われてしまっていたなどと打ち明けた。武田は悔いの残る大会後は、もう一度自分が何者かになるために五輪に出場する必要があると決意し、迎えたシドニー大会ではコーチや選手たちと共通して描いたやりたい演技を目指して表現し、演技を終えた瞬間はメダルや点数ではなくやりたい表現ができたのかが第一に頭に浮かび、コーチから大きな丸をジェスチャーでもらえた時に自分はこの瞬間を待ち望んでいたのだと感じたなどと告げた。
武田はシドニー大会ではデュエット競技も復活しており、立花美哉とデュエットにも抜擢されて出場したが、団体で抱けたような手応えをデュエットでは出場するまでの4年間で全く得られないまま本番を迎えており、本番の演技では立花との距離感を自分が取らなければならないシーンで接近しすぎていることに気づけず、足技中に立花の足とぶつかってしまい、減点にはならなく銀メダルを獲得したけれど達成感は全くなく、距離感を取り間違えるというイージーミスを本番でやったことがトラウマになったなどと明かした。武田は当時に立花にとってもミスであり共に悔やんだ結果、二人して次の大会を目指し、常に自問自答し、試行錯誤し続けたことで、やり方が間違っていたとしても壁は乗り越えられ、2004年のアテネ大会に出場したなどと述べた。武田はアテネ大会までの4年間では自分自身の良さを自分が理解し、それをコーチと一緒に高め、本番では練習の成果そのままを発揮でき、競技者・表現者として満足でき、コーチからも最高の褒め言葉をもらうことができたなどと話した。

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