横浜市史資料室で活動していた羽田博昭氏は横浜では1955年くらいまで米軍施設が残り、土地返還まで声を積極的に挙げられなかったと見られ、接収期間に戦争遺跡も失ってしまったと見ている。1971年に市民団体「横浜の空襲を記録する会」が体験者からの証言の聞き取りや体験記などの収集を行いその数は約7000点にも上るまでとなった。しかし、羽田氏は体験記や日記は貴重だがまだまだ充分に活用されていないと指摘していて、横浜の空襲を記録する会も資料館の建設を働きかけている。大下さんは知らないと人に伝えることができないので1人1人が伝承者なのだと自覚を持って知ることが大切ではないかと話した。