東京大学史料編纂所には豊臣秀長の書状が収められていて、宛先は味方の夜久氏。緊急時の連絡ルートの1つで、本能寺の変で主君が討たれたという知らせも入手できたと考えられるという。当時、秀吉らは備中高松城に堤防を築き、水攻めを行っていた。毛利輝元との和睦を成し遂げた後、明智光秀を討伐するため、京へと疾駆する。その際、毛利が和睦を破棄して追撃してくる可能性を考え、堤防を破壊することで洪水を起こして追撃を阻んだ。さらに大阪北部を本拠地にしていた摂津衆の中川清秀に対し、秀吉は「主君の信長は存命」という嘘の手紙を送っていた。軍勢は2万から4万に膨れ上がり、6月13日、山崎の戦いで明智軍を破った。
