1701年、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた。これまで忠臣蔵では吉良のいじめが原因として描かれていたが赤穂城跡を調査し真相に迫る。敵を確実に仕留めるために城の石垣を屈曲させていることや橋を意図的に曲げていることで浅野内匠頭の武闘派な一面がわかる。浅野家は戦のない江戸時代に実戦向きの城を造った。そんな浅野は幕府から勅使饗応役を楽しめる。江戸城に来た朝廷の使者をもてなす役割で接待費は全て藩の自腹だった。接待役の上司として現れたのが吉良上野介。
水間沾徳が書いた「沾徳随筆」によると、浅野は18年前にも接待役を務め接待費用450~460両を支払ったが近年の費用は1200両に増額していた。浅野は700両にできないかと提案したが吉良は受け入れようとしなかった。1200両は現在の約1億4400万円。浅野は武士としてのメンツが立たなくなるほどひどく罵られたという。また浅野は短慮な人物であったため。こうして浅野は即日切腹し、襲われた吉良はおとがめなしで終わった。その後赤穂藩の城や屋敷は全て幕府に没収された。
水間沾徳が書いた「沾徳随筆」によると、浅野は18年前にも接待役を務め接待費用450~460両を支払ったが近年の費用は1200両に増額していた。浅野は700両にできないかと提案したが吉良は受け入れようとしなかった。1200両は現在の約1億4400万円。浅野は武士としてのメンツが立たなくなるほどひどく罵られたという。また浅野は短慮な人物であったため。こうして浅野は即日切腹し、襲われた吉良はおとがめなしで終わった。その後赤穂藩の城や屋敷は全て幕府に没収された。
住所: 兵庫県赤穂市