肖像画の秘密を探ろうとやって来たのは大阪歴史博物館。館長の大澤研一さんは戦国時代に詳しく豊臣兄弟にまつわるモノを集めた展覧会に向け準備をしている。なぜ1枚だけ違うのかというと秀長の死後200年経った江戸時代に作られたものであった。その謎の答えは秀長が収めた大和国である現在の奈良県にあった。大和国は寺社勢力が強い影響力を持っていた地域で多く の町では人々は商売をしたくても寺社からの許可を得なければ始められなかった。秀長は当時の中心地・奈良ではなく大和郡山を新たな拠点とし大和国の経済改革に乗り出した。その改革の中身が分かるのが「郡山惣町分日記」で当時の大和郡山の町の名前を記した資料である。寺社勢力に対しての配慮も忘れず、その象徴が「釣灯籠」で銅でできた本体に透かし彫りという伝統装飾がふんだんに施されている贅沢な灯籠である。秀長はこうした高級な工芸品を寄進したり資金を援助するなど、寺社勢力とも友好な関係を築いていた。ところがこの町に拠点を置いてからわずか6年後、体調が悪化し亡くなってしまった。しかしその志は人々に受け継がれ、大和国全体の発展へとつながっていく。そして秀長は神格化され崇め奉られるようになっていた。
