日向灘に面し、古くから魚の町として発展してきた門川町は、昭和の終わりまではイワシの豊漁で賑わっていたが、平成に入ってからはイワシの不漁が続き漁獲量、水揚げ量ともに減少した。門川漁港が再起をかけたのは金色に輝くブランド魚の門川金鱧だった。しかし漁師に後継者不足によりブランド化当初は20人ほどいた鱧漁師も残り5人に。そんな時に現れたのは20年ぶり新米漁師の中崎瑛斗さんだった。そのために漁協を通して研修が組まれ先輩の技術を吸収してきたという。2023年の6月に初めて一人で海に出る時がやってきた。底引き網漁は投下した網を引いて海底近くの生き物を漁獲する。約12時間に及ぶ漁のすべてを一人で行う。朝6時には帰港。母親と一緒に魚をザルにわけたが初日に水揚げ量は3万円程度。
海外赴任が多いサラリーマンの父と介護職の母、門川育ちとはいえ漁師とは無縁の家系で育った。中崎さんは学生時代には補導される日々を送っていたという。夢も目標もない日々の中で思い出したのは幼い頃に抱いた海への憧れ。中学校卒業後は一般の高校ではなく漁業だけを学ぶ水産研修所へ。研修所生活を終えて宮崎県内のマグロ船で1年半、まき網で4年腕を磨いた。骨が多い鱧をさばくには骨切りと呼ばれる特殊な加工が必要になる。門川金鱧のブランド化に関わった黒田朝明さんは自ら骨切りを行い、鱧を全国に展開した。その技術を学ぶためにみどりさんは長年続けてきた介護の仕事をやめて毎朝黒田さんのもとに通っている。
海外赴任が多いサラリーマンの父と介護職の母、門川育ちとはいえ漁師とは無縁の家系で育った。中崎さんは学生時代には補導される日々を送っていたという。夢も目標もない日々の中で思い出したのは幼い頃に抱いた海への憧れ。中学校卒業後は一般の高校ではなく漁業だけを学ぶ水産研修所へ。研修所生活を終えて宮崎県内のマグロ船で1年半、まき網で4年腕を磨いた。骨が多い鱧をさばくには骨切りと呼ばれる特殊な加工が必要になる。門川金鱧のブランド化に関わった黒田朝明さんは自ら骨切りを行い、鱧を全国に展開した。その技術を学ぶためにみどりさんは長年続けてきた介護の仕事をやめて毎朝黒田さんのもとに通っている。