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「飯島愛」 のテレビ露出情報

シティボーイズが登場 。演劇と何千な笑いのコントで人気に。お笑いスター誕生!!を10週勝ち抜きグランプリを獲得。東京コント界のカリスマに。1971年にそれぞれの大学に通いながら演劇を始め、俳優風間杜夫らとともに劇団を旗揚げ。その後トリオを結成し、メンバーは劇団員時代は食えない時代が続いたという。もう年齢も行っていたので普通の社会にも戻れず、役者でも食えないことがわかっていったという。それでコントになっていったと答えた。大竹は父親には劇団員活動を反対され、実家には帰らないでいたという。きたろうも身内が反対していたと答えた。
斉木はバイトを40種類ほどしていたという。大竹は斉木がバイトなのに羽振りがよかったというが、銀座にあったラーメン屋で出前持ちのバイトが16人いたという。その中の出世頭が滝田栄だったという。風間杜夫もそこで働きたかったが滝田栄がそれを拒んだために風間が滝田を嫌いになってしまったという。また斉木はバイトを統括していたので給料が皆より良かったと答えた。きたろうはキャバレーで照明を当てるバイトをしていたという。さらにシティボーイズ結成秘話について大竹は風間杜夫が歌手として蒲田行進曲で売れたことがきっかけだったという。その一方で自分たちはシティボーイズを結成したが毎月ライブを開催してもお客は数人しかいなかったという。しかしその転機は人力舎の社長にマルセ太郎が自分たちをおすすめしてくれ、事務所に入れたほうが良いという推薦があったからだという。そして事務所に所属したシティボーイズはお笑いスター誕生!!に挑戦。
30代でお笑いスター誕生!!に初めて出演したというシティボーイズ。斉木は当時年齢に焦りは感じていたか?には全く思っていなかったという。しかし斉木ときたろうは食っていけるとは思っていなかったというが大竹だけは一人だけ売れようという意識をもっていたという。その後番組で10週勝ち抜きグランプリを獲得。大竹はこれはもう売れることを約束されたものだと答えたが仕事は一個も入ってこなかったという。しかし人力舎は給料制だったというが、大竹は事務所に直談判。一人30万円ほしいと頼んだという。しかしそれは給料ではなく給料の前払いで、仕事がない頃から30万円を前借りしていたことになっていたという。そのために借金は600万円にまでなり、事務所の社長も経営も火の車だと言っていたという。当時は逃げようと思っていたと大竹は答えたがCMが1本決まり借金を返すことができたという。また当時はコントの単独ライブを何本もしていたのは自分たちだけだったという。チケットは即完売するほど大人気になった。ネタ作りについて大竹は3人で考えるとひどいものしかできなかったという。また自分たちの公演や演出を宮沢章夫がやっていたと答えたが、その存在は大きかったという。その後も作家が10年ごとに入れ替わったという。しかし作家にはキャリアを積んでもアドリブを飛ばしたなどとよく怒られていたという。
大竹はその後、テレビでブレイクをしたというが、舞台がすごく儲かっていた時期だったがその分テレビで、3人の時とは違う芸名で活動していたという。違うキャラでテレビでよく暴れていたが、劇場に帰れば自分たちの客がいるという考えを持っていたからだという。キレキャラだったというが出た瞬間から大暴れしていたという。しかしそのことでセットを壊し日テレや他番組を出禁になってしまったという。またその時のシティボーイズのギャラが3人で折半だったがあまりに大竹が一人で働いている様子に本人が嫌だと拒否したという。その理由に大竹はきたろうが高校野球を全部観たと話したからだという。さらにビートたけしのTVタックルのような時事問題などを扱う番組に呼ばれるようになったきっかけに、大竹は最初この番組はお笑いだったが徐々にゲストが政治家になってくると、タレントがどんどん番組からいなくなり、自分がいよいよクビになるかと思いきや、その番組にあったことを話したという。そのために政治家とも口論したこともあったと答えたが、得に田嶋陽子は因縁の仲だったと、当時の出来事を振り返った。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年12月13日放送 20:55 - 22:00 TBS
中居正広の金曜日のスマイルたちへ(金スマ 波瀾万丈)
飯島愛さんの映像が流れた。

2024年4月15日放送 0:25 - 0:55 テレビ朝日
有吉クイズ懐かしのテレビ欄穴埋めQ
前回に引き続き、有吉考案の2005年のテレビ欄の穴埋めクイズに挑戦。午後の番組には「アッコにおまかせ!」や「ウチくる!?」、「あっぱれ!!さんま大教授」などがあった。

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