昭和40年、鉄とコンクリートの時代が始まった頃、空前の建設ラッシュの中次々と高層ビルが建てられ、活気づく建設業界の場に人々が押し寄せた。その頃、奈良では深刻な問題を抱えていた。寺の改築や回収を行う宮大工が不足で、宮大工たちは3倍もの収入になる都会の建設現場に流れ、寺は荒れ果てる一方。しかし世界最古の木造建築の法隆寺には日本一の宮大工がいた。大工の西岡常一は妥協を知らない仕事ぶりから法隆寺の鬼と呼ばれた。西岡は25歳の若さで法隆寺大修理の棟梁を務めていたが、その腕はずば抜けていた。巨大建築の知識も豊富で大学教授をも論破。しかし、昭和40年に西岡に仕事はなく、鍋の蓋を作っては日銭を稼いでいたという。民家の仕事を頑なに拒んだが腕が鈍ると、自分の家の修理ですら他の大工にまかせていた。家計は火の車で妻は長靴を売り歩いたという。昭和42年に法隆寺と並ぶ名刹の薬師寺に新住職が誕生した。高田好胤は歴代住職の悲願である金堂の再建を背負っていた。薬師寺の金堂は戦乱で焼け落ち、400年間仮の建物のままだった。仮金堂は薬師如来などの両菩薩がおさめられ、人々の病んだ心を救うと言われた国宝の仏。しかし、仏を守る仮金堂は雨漏りがひどく柱は朽ち虫も出た。法要は傘をさして行われたという。
金堂の復活に掲げた高田は難問に1300年前の金堂の姿が全くわからなかった。その手がかりは寺に残された一冊の古文書のみ。金堂は二階建てで、それぞれの階は二重でその高さは1丈9尺5寸。設計を依頼された古代建築の研究者の太田博太郎はその手がかりのなさにたじろいだという。太田は寺の発掘調査を行うと遺跡が姿を表した。巨大な礎石から、柱の大きさとその数がわかった。屋根から落ちる雨を流す溝もみつかり、その溝の位置から推測し、屋根の大きさがわかった。太田は次に境内にある東塔に目をつけた。唯一火災を免れ1300年前の姿を留めていて、いにしえの匠の技術のスゴさに唸ったという。その後1年がかりで設計図を書き上げたが高さ20m、幅27mの華麗な金堂の姿が描かれ、鳳凰が飛び立つような曲線が描かれていた。そしてそれを任されたのが鬼と呼ばれた宮大工の西岡常一。この時62歳になっていたという。住職の高田の依頼に西岡は応えた。昭和46年に金堂の起工式が行われたが、晴れやかな場所で西岡の表情は冴えず。金堂復元のためには少なくとも腕のたつ30人の宮大工が必要だったが、その元には誰も集まっていなかった。スタジオでは当時の設計図の解説を行った。
その後も西岡のもとに宮大工が集まらず、現場を睨むだけの日々が続いたという。しかし、この時全国各地で金堂の復元に胸をときめかせていた若者たちがいた。建部清哲は当時31歳で、大工の棟梁の跡継ぎだった建部は、日々の仕事に物足りなさを感じていたという。金堂再建のニュースに賭けに出、妻と3人の子どもを連れて奈良の西岡のもとに走った。そして腕自慢の若者が50人集まったという。西岡は試験に大工道具の手入れ具合で腕を見極める道具試験を行った。福岡からやってきた沖永は当時24歳。器用さには誰にも負けない自信があり、自信満々で試験に臨んだ。しかし鼻っぱしをへし折られた。沖永を始め、30人の若い大工をやっと通過したが誰一人として宮大工の経験がない若者たちだった。その頃、住職の高田は資金集めにとんでもない行動に出た。その復元にかかる費用の10億円のため、テレビに出演し呼びかけに写経勧進をお願いした。一般の人々にも写経をお願いし、1000円の納経料を収めてもらう初めての試みだった。10億円に必要な参加者は100万人。一人一人の力をあわせた金堂でなければ仏様が泣くと、高田は企業からの資金援助は断ったという。しかしタレント坊主と叩かれたが、自分の身一つなんのことと言ってのけた。その日記には、思いが綴られていた。
昭和46年8月に600トンにおよぶヒノキが到着した。樹齢1000年の大木が登場し工事が始まり、古代建築の命の木造りが行われた。柱や梁など、数十万個に及ぶ材料を切り出し、精緻に仕上げていく。西岡の仕事ぶりに若者たちは戸惑ったという。西岡は怒りもせず、教えもしない、木と対話をして仕事をしろと一言。滋賀から飛び出してきた建部は墨打ちに苦戦していた。墨打ちは木のクセを読み取り、どの部分を切り出すか墨で線を引く作業。間違えれば高価なヒノキが無駄になる。たまらず西岡に答えを求めたが怒られてしまったという。島根からきた玉村信好は26歳だった。主をもたない野武士と自称していたが、喧嘩っ早い玉村は西岡に物怖じせずに歯向かったという。ある日のこと、若者の1人の小川三夫が角材を加工しようとしたが、カンナが上手く引けず。キレが悪く木目を痛めてばかりだったが、その時西岡がカンナを引くと木くずのむこうが透けて見え、西岡の技術のスゴさは誰もが認めた。しかし、何も教えてくれないことに若者たちの不満が募った。さらにある日、玉村が仲間を殴りバラバラになりかけていた頃、西岡が現れた。若者たちに玉露を振る舞い一服すると落ち着いたが、アテという木を例に出し、若者たちに木と同じように人間も様々な人がいてそれが組み合ってこそ、初めて立派な仕事ができると伝えたという。
玉村は当時の金堂再建について当初は場違いな所に来てしまったと後悔したという。小川は通常は使わない天然の木に苦戦したと語り、しかしその経験が自信に変わっていたという。そして西岡の大工道具を紹介した。
昭和48年の3月、金堂の組み立てが始まった。重さ1トンを超える丸柱が一斉に立ち上げられ、組み立てはチームの強さとその呼吸が全てで、若者たちは自分の役割を考えて、動き始めた。玉村は牽引者になろうと張り切った。その木組みの難しさは想像を超え、きちんと仕上げたはずの材料は、反りやねじれで歪んでいたという。玉村は木槌で無理やりはめ込もうとしたが、そこに西岡が飛んできて、その木槌の音はおかしいと言ったという。玉村は、木は生きている、木のクセに逆らうなと答えた西岡の動きに必死になったという。0から金堂を作り上げるのは西岡にとってもいにしえの名工との戦いだった。鳳凰が羽ばたく美しい曲線美を生み出すため、深夜まで1人でそろばんをはじいた西岡の姿があった。どの材料を使い、どの角度で積み上げれば華麗な曲線を生み出すことができるのか。ノートは数字で埋め尽くされた。西岡が一番の勝負所と睨んでいたのは大きく反りだした屋根を支る隅木。長さは9mで、重さは600キロ。その曲線美の成否はこの隅木にかかっていた。西岡は隅木を切り出す墨打ちの仕事を建部に任せた。建部はそれに喜んだが、いざとなると樹齢1000年の重圧に押しつぶされそうになったという。その時西岡は責任を取るから思いっきりやれと伝え、建部は気が楽になったという。昭和48年4月に勝負の時を迎えた。建部が墨付けし、切り出された600キロの隅木が若者たちの手で運び出された。しかし西岡はその時、隅木を5センチ高く組めと言い出したという。ミリ単位まで正確に組んでいた西岡の指示とは思えなかったというが、設計図を無視すれば屋根の反りは変わってしまう。若者たちも無茶だと感じたという。しかしつなぎ目はどうしてもあわず。玉村がノミを握り、2時間後に隅木が取り付けられたが、鳳凰が羽ばたく見事なフォルムになったという。
西岡は5センチ高くした理由に歳月の重みで反りは落ちていくため1000年後に設計図通りになると答えたという。昭和51年4月に金堂は完成した。高田が集めた写経勧進は100万巻を突破し、社協を金堂の中に収めた高田は、この金堂は一人一人の力を結集したかけがえのないものになったと答えたという。こうして1300年前の名工たちを乗り越えた。玉村と小川は金堂が完成した時の喜びを語った。金堂の完成から24年が経過。年に一度、金堂に会いに来るという建部は今では6人の弟子を持つ棟梁になったという。弟子には金堂の大事な部分を担当し、みるたびに勇気が湧いてくると語っているという。沖永は西岡に大工道具の手入れの甘さを指摘されたが、金堂の建設後、模型職人になったという。しかし宮大工をやめたことに西岡がどう思っているかと気にかけていたが、西岡は手紙で激励してくれたという。平成7年に西岡は86歳で亡くなったという。若者に親方を乗り越え、匠の道を極めることと助言を残した。薬師寺では大講堂の復元工事が進み、今も若者が作業に取り掛かっているという。
金堂の復活に掲げた高田は難問に1300年前の金堂の姿が全くわからなかった。その手がかりは寺に残された一冊の古文書のみ。金堂は二階建てで、それぞれの階は二重でその高さは1丈9尺5寸。設計を依頼された古代建築の研究者の太田博太郎はその手がかりのなさにたじろいだという。太田は寺の発掘調査を行うと遺跡が姿を表した。巨大な礎石から、柱の大きさとその数がわかった。屋根から落ちる雨を流す溝もみつかり、その溝の位置から推測し、屋根の大きさがわかった。太田は次に境内にある東塔に目をつけた。唯一火災を免れ1300年前の姿を留めていて、いにしえの匠の技術のスゴさに唸ったという。その後1年がかりで設計図を書き上げたが高さ20m、幅27mの華麗な金堂の姿が描かれ、鳳凰が飛び立つような曲線が描かれていた。そしてそれを任されたのが鬼と呼ばれた宮大工の西岡常一。この時62歳になっていたという。住職の高田の依頼に西岡は応えた。昭和46年に金堂の起工式が行われたが、晴れやかな場所で西岡の表情は冴えず。金堂復元のためには少なくとも腕のたつ30人の宮大工が必要だったが、その元には誰も集まっていなかった。スタジオでは当時の設計図の解説を行った。
その後も西岡のもとに宮大工が集まらず、現場を睨むだけの日々が続いたという。しかし、この時全国各地で金堂の復元に胸をときめかせていた若者たちがいた。建部清哲は当時31歳で、大工の棟梁の跡継ぎだった建部は、日々の仕事に物足りなさを感じていたという。金堂再建のニュースに賭けに出、妻と3人の子どもを連れて奈良の西岡のもとに走った。そして腕自慢の若者が50人集まったという。西岡は試験に大工道具の手入れ具合で腕を見極める道具試験を行った。福岡からやってきた沖永は当時24歳。器用さには誰にも負けない自信があり、自信満々で試験に臨んだ。しかし鼻っぱしをへし折られた。沖永を始め、30人の若い大工をやっと通過したが誰一人として宮大工の経験がない若者たちだった。その頃、住職の高田は資金集めにとんでもない行動に出た。その復元にかかる費用の10億円のため、テレビに出演し呼びかけに写経勧進をお願いした。一般の人々にも写経をお願いし、1000円の納経料を収めてもらう初めての試みだった。10億円に必要な参加者は100万人。一人一人の力をあわせた金堂でなければ仏様が泣くと、高田は企業からの資金援助は断ったという。しかしタレント坊主と叩かれたが、自分の身一つなんのことと言ってのけた。その日記には、思いが綴られていた。
昭和46年8月に600トンにおよぶヒノキが到着した。樹齢1000年の大木が登場し工事が始まり、古代建築の命の木造りが行われた。柱や梁など、数十万個に及ぶ材料を切り出し、精緻に仕上げていく。西岡の仕事ぶりに若者たちは戸惑ったという。西岡は怒りもせず、教えもしない、木と対話をして仕事をしろと一言。滋賀から飛び出してきた建部は墨打ちに苦戦していた。墨打ちは木のクセを読み取り、どの部分を切り出すか墨で線を引く作業。間違えれば高価なヒノキが無駄になる。たまらず西岡に答えを求めたが怒られてしまったという。島根からきた玉村信好は26歳だった。主をもたない野武士と自称していたが、喧嘩っ早い玉村は西岡に物怖じせずに歯向かったという。ある日のこと、若者の1人の小川三夫が角材を加工しようとしたが、カンナが上手く引けず。キレが悪く木目を痛めてばかりだったが、その時西岡がカンナを引くと木くずのむこうが透けて見え、西岡の技術のスゴさは誰もが認めた。しかし、何も教えてくれないことに若者たちの不満が募った。さらにある日、玉村が仲間を殴りバラバラになりかけていた頃、西岡が現れた。若者たちに玉露を振る舞い一服すると落ち着いたが、アテという木を例に出し、若者たちに木と同じように人間も様々な人がいてそれが組み合ってこそ、初めて立派な仕事ができると伝えたという。
玉村は当時の金堂再建について当初は場違いな所に来てしまったと後悔したという。小川は通常は使わない天然の木に苦戦したと語り、しかしその経験が自信に変わっていたという。そして西岡の大工道具を紹介した。
昭和48年の3月、金堂の組み立てが始まった。重さ1トンを超える丸柱が一斉に立ち上げられ、組み立てはチームの強さとその呼吸が全てで、若者たちは自分の役割を考えて、動き始めた。玉村は牽引者になろうと張り切った。その木組みの難しさは想像を超え、きちんと仕上げたはずの材料は、反りやねじれで歪んでいたという。玉村は木槌で無理やりはめ込もうとしたが、そこに西岡が飛んできて、その木槌の音はおかしいと言ったという。玉村は、木は生きている、木のクセに逆らうなと答えた西岡の動きに必死になったという。0から金堂を作り上げるのは西岡にとってもいにしえの名工との戦いだった。鳳凰が羽ばたく美しい曲線美を生み出すため、深夜まで1人でそろばんをはじいた西岡の姿があった。どの材料を使い、どの角度で積み上げれば華麗な曲線を生み出すことができるのか。ノートは数字で埋め尽くされた。西岡が一番の勝負所と睨んでいたのは大きく反りだした屋根を支る隅木。長さは9mで、重さは600キロ。その曲線美の成否はこの隅木にかかっていた。西岡は隅木を切り出す墨打ちの仕事を建部に任せた。建部はそれに喜んだが、いざとなると樹齢1000年の重圧に押しつぶされそうになったという。その時西岡は責任を取るから思いっきりやれと伝え、建部は気が楽になったという。昭和48年4月に勝負の時を迎えた。建部が墨付けし、切り出された600キロの隅木が若者たちの手で運び出された。しかし西岡はその時、隅木を5センチ高く組めと言い出したという。ミリ単位まで正確に組んでいた西岡の指示とは思えなかったというが、設計図を無視すれば屋根の反りは変わってしまう。若者たちも無茶だと感じたという。しかしつなぎ目はどうしてもあわず。玉村がノミを握り、2時間後に隅木が取り付けられたが、鳳凰が羽ばたく見事なフォルムになったという。
西岡は5センチ高くした理由に歳月の重みで反りは落ちていくため1000年後に設計図通りになると答えたという。昭和51年4月に金堂は完成した。高田が集めた写経勧進は100万巻を突破し、社協を金堂の中に収めた高田は、この金堂は一人一人の力を結集したかけがえのないものになったと答えたという。こうして1300年前の名工たちを乗り越えた。玉村と小川は金堂が完成した時の喜びを語った。金堂の完成から24年が経過。年に一度、金堂に会いに来るという建部は今では6人の弟子を持つ棟梁になったという。弟子には金堂の大事な部分を担当し、みるたびに勇気が湧いてくると語っているという。沖永は西岡に大工道具の手入れの甘さを指摘されたが、金堂の建設後、模型職人になったという。しかし宮大工をやめたことに西岡がどう思っているかと気にかけていたが、西岡は手紙で激励してくれたという。平成7年に西岡は86歳で亡くなったという。若者に親方を乗り越え、匠の道を極めることと助言を残した。薬師寺では大講堂の復元工事が進み、今も若者が作業に取り掛かっているという。
