秀吉の中国攻めの上で、黒田官兵衛は播磨に精通していた。今の岡山市にあった備中高松城は沼沢地に囲まれ、敵の侵入を阻んでいた。黒田官兵衛は堤防を築き、川の流れを変えて城を水没させることを提案。江戸時代の伝承によると、高さ7mの堤防を3キロにわたって築いたが、12日しかかからなかったという。だが、根元裕樹准教授は2か所の堤防を築くだけで、水攻めは可能という説を提唱する。2つの堤防の間には高低差があり、水の流出を防ぐことができたという。発掘調査にあたった高橋伸二氏は水攻めを兵糧攻めの一種と捉えている。井戸は使えず、城内では炊事もできなくなる。
