- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
オープニング映像。
岐阜・垂井町の歴史民俗資料館には竹中半兵衛の記録が収蔵されている。「絵本豊臣勲功記」には秀吉が3度、半兵衛のもとを訪問する様子が描かれている。これは江戸時代に流行した「三国志」において、劉備が諸葛亮に三顧の礼を尽くした場面に由来する。だが、創作にすぎないという。21歳の時、竹中半兵衛は斎藤龍興が治める稲葉山城を仲間と乗っ取り、家臣を斬り伏せるなど武勇を見せつけた。居城だった菩提山城では美濃、近江の情勢を常に窺っていたという。
豊臣秀吉が出世街道を走るなか、竹中半兵衛はその伴走者といえたという。黒田官兵衛は今の兵庫の生まれで、32歳の時、秀吉に従った。秀吉直筆の書状には「弟の小一郎同然に信頼している」と記されている。
秀吉の中国攻めの上で、黒田官兵衛は播磨に精通していた。今の岡山市にあった備中高松城は沼沢地に囲まれ、敵の侵入を阻んでいた。黒田官兵衛は堤防を築き、川の流れを変えて城を水没させることを提案。江戸時代の伝承によると、高さ7mの堤防を3キロにわたって築いたが、12日しかかからなかったという。だが、根元裕樹准教授は2か所の堤防を築くだけで、水攻めは可能という説を提唱する。2つの堤防の間には高低差があり、水の流出を防ぐことができたという。発掘調査にあたった高橋伸二氏は水攻めを兵糧攻めの一種と捉えている。井戸は使えず、城内では炊事もできなくなる。
備中高松城を攻めていた頃、豊臣秀吉は本能寺の変で主君が倒れたと知らせを受ける。水攻めが成功したことで毛利と講話を結べ、中国大返しが可能に。そして、明智光秀を倒すことができたといい、河合敦氏は「秀吉の天下取りのターニングポイント」と話す。また、スタジオでは竹中半兵衛が官兵衛の家族に宛てた手紙を紹介。
毛利攻めの最中、荒木村重が毛利方に寝返った。黒田官兵衛は説得のため、村重の城へ向かうも虜囚となってしまう。竹中半兵衛は官兵衛の家族に宛てた手紙で、「涙をながし候」と記載されている。日付は病没する2か月前で、病をおして手紙を書いていたと考えられる。主君、信長は官兵衛が裏切ったと考え、息子の松寿丸を弑するよう命令していたという。半兵衛は居城近くに松寿丸を匿い、「とらわれの官兵衛とやり取りし、無事だと分かった」と家族に手紙で報告。また、手紙のなかで、官兵衛に松寿丸の面倒を頼むと懇望され、幼少の息子がいた半兵衛は涙を流したという。救出された官兵衛が松寿丸と再会を果たした頃、半兵衛はすでにこの世を去っていた。黒田長政(のちの松寿丸)、竹中重門は関ヶ原の戦いでは東軍につき、ともに戦った。長政は半兵衛が生前に使っていた兜と同じ形のものを使い、奮戦した。
関ヶ原の戦いで黒田長政は戦地に精通する竹中重門から強力なサポートを得ていたと考えられる。また、長政は匿ってくれた竹中半兵衛に恩義を抱き、半兵衛の孫を育てて重臣にした。佐藤二朗は「徹子の部屋」に出演した際、黒柳徹子に佐藤の出演する歴史番組を観ていると言ってくれたと明かした。
「歴史探偵」の次回予告。
