- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
オープニング映像。
織田信長は足利義昭を奉じて上洛すると、畿内の制圧を目指した。大坂に拠点を構える本願寺から約5億円をむしり取り、傘下の街や村に弾圧を行った。石山合戦では門徒と呼ばれる信者たちが本願寺に集まり、信長軍と戦った。顕如は僧侶でありながら、戦場で陣頭指揮をとった。兜の内側には「南無阿弥陀仏」と記された紙が張られていた。本願寺は系列の寺院を介し、数千にのぼる道場と繋がっていて、顕如の指示は各地の門徒へ伝えられた。本願寺の歴史を調べる藤原慶人氏は顕如が寺院に送った檄文に着目する。戦争に関する文言はないという。滋賀大学の佐藤健一教授によると、合戦時に本願寺が門徒、寺に出した書状には仏教に関するワードが多かったという。門徒たちは本願寺がなくなれば、死後に極楽へ行けないと捉え、本願寺に馳せ参じた。死を恐れないような奮戦は織田軍を恐れさせ、信長の弟である信興は城を包囲されて自害、兄の信宏は戦死した。
門徒たちは石山合戦で、「進めば極楽往生、退けば無間地獄」と記された旗を掲げた。大坂本願寺が蜂起すると、朝倉義景、浅井長政、六角氏なども勢いを取り戻し、信長包囲網を結成。
本願寺に連なる寺は日本各地に存在し、織田信長と戦う浅井長政、朝倉義景ら武将たちをサポートした。また、顕如の妻は平安時代から続く貴族”三条家”の出身で、妻の姉の嫁ぎ先は武田家だった。武田信玄が上杉謙信と対立しているなか、加賀では門徒たちが一向一揆を起こし、守護を倒すほどだった。加賀の一揆軍を鎮圧するため、上杉謙信自らが出陣。憂いを断った武田信玄は信長包囲網に加わり、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を撃破している。
本願寺は外交面でも大名と大名の間を取り持ったりしたという。また、領地内に門徒がいるため、大名からすれば、一揆を起こされでもしたら、安定した経営はできない。本願寺と連携をせざるを得なかったという。さらに信長軍にも門徒たちがいて、白犬衆と呼ばれた。城攻めでは空砲を撃ったりするなど、戦っているフリをしていたという。
南越前町の木ノ芽峠には本願寺の指示のもとで整備された鉢伏城があった。だが、門徒たちは逃亡してしまったという。佐藤健一教授は本願寺が門徒たちに送った書状を年代別に分類すると、後半になるほど、仏教に関するワードは少なくなり、「鉄砲」が頻出するという。また、地元の門徒に高圧的な要求をしていたという。戦争の長期化、暮らしの疲弊で、信仰を最優先にするのは難しくなっていった。織田軍は労せずして鉢伏城を攻め落とし、信長は降伏した門徒たちを断罪。福井では1万人以上が殺害された。武生公会堂記念館に所蔵されている瓦には虐殺の様子が刻まれている。1580年、顕如は信長と和睦を結び、大坂本願寺から退去した。
河合敦氏は石山合戦で織田信長が負けていたら、全く違う社会ができていた可能性を指摘する。また、徳川家康も若かりし頃、一向一揆に苦しめられた。江戸幕府に反抗できないよう、大坂本願寺を東西に分断してしまったという。河合氏は大坂本願寺の門徒のように、歴史の敗者にも目を向けることは大事と捉える。
「歴史探偵」の次回予告。
