HIKARIさんは交換留学生として1年間アメリカへ。この時の経験が映画づくりの礎になっていく。HIKARIさんは「最初の3か月はほとんど伝わらない。その中で学んだことは人とのつながり。言葉が違っても理解さえし合えれば関係は絶対築ける。自分の中でそれがある意味“世界平和”」と語った。その後、再び渡米。今度は俳優でアメリカン・ドリームに挑み南ユタ州立大学で舞台芸術を学んだ。卒業後は俳優の仕事を求めてハリウッドへ。アジア人が少なくオーディションを受けても役があまりなかったという。母親が使っていた35ミリのカメラで友達の写真を撮り始めたのがきっかけで結婚式やお葬式、出産など人々の様々な人生に触れたことで、この経験を生かしたいと考えるようになった。それできるのは映画だと気付き、俳優の夢を映画監督へとシフトチェンジ。決断を後押ししたのが母だった。母は学校の劇で企画、脚本、衣装まで担当して活躍するHIKARIさんを見て監督の素質を見抜いていた。数々の名監督を輩出した名門・南カリフォルニア大学大学院を受験し、4浪5浪がいる大学院を1発合格。HIKARIさんは寝る間を惜しんで映画づくりを学んだ。卒業制作として監督を務めた「TSUYAKO」が各国の映画祭に入選し、世界に実力を認められた。
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