グッド!モーニング GOOD!いちおし
これまで歴史の新説を紹介してきたが、今回も歴史作家で多摩大学客員教授の河合敦に歴史の最前線を教えてもらう。織田信長は居城のあった尾張のすぐ隣、美濃を攻略した頃から「天下布武」という言葉を使い始めた。河合は「天下統一して“布武”武士政権を作るという意味だと言われてきたが、最近ではそれを言わない教科書が出てきた。信長は天下統一を目指していなかったから」などとコメントした。天下という言葉は当時全国という意味では使われておらず、天下は畿内、近畿地方のことを指していた。信長の天下布武は、もう1回室町幕府を畿内に復活させようという意味だったという。1568年に信長は15代将軍足利義昭と京都に入り、室町幕府の再興を果たした。しかしその後も次々と敵が現れ、戦うはめに。1573年に織田信長は足利義昭を京から追放し、本格的に天下統一を目指すことになった。信長の経済政策として有名な「楽市令」だが他の大名も同じことをやっており、河合は「信長が革新的に進んでいたわけではなくて、むしろ遅れているという評価も最近なされている」などと語った。
