- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
オープニング映像。
朝倉義景のスゴさに迫る鍵を握るのが福井の一乗谷だという。
- キーワード
- 朝倉義景
朝倉義景が拠点としていた一乗谷は全国屈指の城下町だったといい、各家に井戸、便所と生活インフラも整っていたとされる。また、発掘調査の結果、国の重要文化財に指定されている「目貫」、青磁などが出土している。高い技術力を持った職人、経済力も有していたことが見て取れる。
一乗谷の北側を流れる足羽川のほとりで港の遺構が発見された。中国からの船が入港した三国湊と結ばれることで、大量の物資が運び込まれていた。また、朝倉氏がおさめていた越前で作られる焼き物が北海道・上ノ国町の遺跡で数多く見つかっている。北海道の海産物などと取引し、船は京都へ向かったと考えられる。その途上には朝倉氏の一乗谷があった。
朝倉氏は優秀な人材を流出させないような法を制定していたされる。一方、将来有望な者は留学させるなど人材育成にも注力していた。また、朝倉義景と島津氏のやり取りに注目すると、義景は琉球貿易を構想していたと考えられる。ちなみに朝倉氏は応仁の乱で主君を追い払い、実力を手に入れたものの、家格が乏しかった。
一乗谷では大量のかわらけが見つかっている。宴会で一度使われたら処分されるものだが、朝倉義景はそれだけ多くの宴会を催していたという。領内では多くの庭園の他、絶景を堪能できる御殿があったという。都の貴族、文化人を歓待し、犬追物や曲水の宴など伝統行事も催した。足利義輝の暗殺後、後継候補となった義昭は都で名声を高めていた朝倉氏に目をつけ、のちに領地を訪問している。朝倉義景は経済力をいかした17献の料理で饗応し、中庭にもうけた舞台で能を披露した。多聞院日記には天下人に近い人物として織田信長、武田信玄、朝倉義景の名前が記されている。
朝倉義景が滋賀・長浜市の山に築いていた城を調査。出入り口に複雑な形の土塁を築き、敵の侵入速度を遅らせつつ、土塁の上に伏兵を配置していたという。城郭考古学者の千田嘉博氏は「この時期に見事な枡形を土塁と組み合わせて作り上げたのは全国屈指といって良い」と語った。先進的な築城技術を有していた義景は近江の武将らとやり取りし、織田に立ち向かおうとした。
浅井救援するため、朝倉義景は出兵を決断したが、家臣たちは兵の疲弊を理由に固辞した。義景は出陣を強行するも、城は落ち、退却を余儀なくされた。味方も続々と去っていき、信頼していた重臣にも裏切られた。朝倉義景は自刃し、朝倉氏は滅亡した。栄華を誇った一乗谷は信長軍によって焼き払われた。
1970年代、一乗谷で遺跡や遺物が出土して大騒ぎになったといい、今も発掘調査が続いている。河合敦氏は「朝倉氏がやろうとしていた街作り、庶民の暮らしぶりが明らかになる。日本の中世考古学は一乗谷から始まったとも言われる」と語った。
「歴史探偵」の次回予告。
