- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
今回、新選組の誕生の秘密に迫る。近藤勇の天然理心流にも注目。
- キーワード
- 近藤勇
オープニング映像。
近藤勇は農家の3男として生まれ、16歳の時に近藤周助の養子となった。相次ぐ飢饉で農村は荒れ、やくざ者になる農民が続出。そのため、農民や庶民は自衛手段として剣術を学んでいった。近藤の才覚は優れていたという。また、関東で腕の立つ剣士の名前が記された「武術英名録」には土方歳三の名が確認されている。
近藤勇、土方歳三が学んだのが天然理心流。稽古を取材すると、どちらかが降参するまで試合が続行し、蹴り、投げ技、絞め技もアリな総合武術だった。近藤周助の養子となった近藤勇は28歳の時、天然理心流の道場を継承した。ただ、主君はおらず、浪人の身だった。
幕末の江戸には三大道場があった。そのうちの1つ、北辰一刀流を教えていた千葉周作は武士ではなかったという。農民の出だった斎藤弥九郎の教え子には桂小五郎、高杉晋作がいた。また、剣術のみならず柔術など何でもアリだった天然理心流について、江戸の道場主たちは「田舎剣法」と揶揄していたという。
近藤勇は出稽古を通して出会った小島鹿之助と義兄弟の契りを結んだ。裕福だった小島家には大量の蔵書があり、博識だった鹿之助は近藤にとって学問の師といえる存在だった。14代将軍の徳川家茂は攘夷決行に関して天皇と協議するため、京へ向かうことになった。だが、当時の京は治安が悪化していて、幕府は警護役として浪士組を新設することに。武士となっても仕えるべき主君がおらず、浪人だった近藤勇は江戸から京都へ。横浜に英国の軍艦が来ると、幕府は浪士組に引き返すよう命じたが、近藤はまだ将軍が上洛していないと固辞した。京に残ったのは近藤を含めて24人だけ。浪士組を離れたことで、失職したとも言えた。京都の守護を任されていた会津藩の松平容保は近藤らを藩お預かりにし、壬生浪士組として活動を開始した。
京の治安を守る際、近藤勇は戦国時代の当世具足とされる甲冑を身に着けていた。人からの借り物であったが、武士たらんとする近藤の意思を感じさせるという。
新選組の初代局長は芹沢鴨で、近藤勇と比べて身分は上。徳川御三家の1つ、水戸藩の出身だった。実は尊王攘夷のための活動資金を募っていて、そのためには人を暴行したり、殺傷も厭わなかったという。藩に捕縛されたが、徳川家茂と和宮の婚姻が決まったことによるお祝いとして恩赦で釈放された。だが、京都でも裕福な商人に接近して金をせしめていた。要求に応じなければ商家に火を放つなど、暴力的な気質は変わらなかった。会津藩主の松平容保は芹沢の悪行三昧に憤り、呼び出した近藤に処断を命じた。
京都にある八木家は新選組に住まいを提供していた。1863年9月16日、酒に酔って寝ていた芹沢鴨の寝所を土方歳三、沖田総司ら4人が強襲。隊士だった平山五郎を斬殺し、倒した屏風の上からお梅、芹沢を刀で刺突した。芹沢は逃げ出すも、とどめを刺された。そして、近藤勇を局長とする新選組が誕生。
佐藤二朗は荒くれ者が揃った新選組を率いるため、近藤勇も非情になるほか無かったと推察した。その後、近藤は幕府から大久保大和という名前の他、若年寄格という役職も与えられたという。だが、徳川幕府が倒れ、新政府軍に捕まった近藤は斬首される。スタジオトークで片山アナはアルバイト時代の先輩が土方歳三の子孫だったことを明かした。
「歴史探偵」の次回予告。