近藤勇は出稽古を通して出会った小島鹿之助と義兄弟の契りを結んだ。裕福だった小島家には大量の蔵書があり、博識だった鹿之助は近藤にとって学問の師といえる存在だった。14代将軍の徳川家茂は攘夷決行に関して天皇と協議するため、京へ向かうことになった。だが、当時の京は治安が悪化していて、幕府は警護役として浪士組を新設することに。武士となっても仕えるべき主君がおらず、浪人だった近藤勇は江戸から京都へ。横浜に英国の軍艦が来ると、幕府は浪士組に引き返すよう命じたが、近藤はまだ将軍が上洛していないと固辞した。京に残ったのは近藤を含めて24人だけ。浪士組を離れたことで、失職したとも言えた。京都の守護を任されていた会津藩の松平容保は近藤らを藩お預かりにし、壬生浪士組として活動を開始した。
京の治安を守る際、近藤勇は戦国時代の当世具足とされる甲冑を身に着けていた。人からの借り物であったが、武士たらんとする近藤の意思を感じさせるという。
京の治安を守る際、近藤勇は戦国時代の当世具足とされる甲冑を身に着けていた。人からの借り物であったが、武士たらんとする近藤の意思を感じさせるという。