被爆地・長崎の戦後史

2025年8月9日放送 18:28 - 18:34 TBS
報道特集 (特集)

長崎の戦後の歩みは、常にもう一つの被爆地・広島を意識するものだった。被爆から2年、GHQのマッカーサー元帥が広島にメッセージを送ると、長崎に対しても声明を望む投書が寄せられた。広島で原爆の日に平和祭が盛大に行われると、なぜ長崎では行われないのか、不満が渦巻いた。被爆から4年を迎えると、広島を追いかける形で11日間に渡る盛大な文化祭。打ち上げ花火に盆踊り大会が行われ、記事には「あの日の犠牲がきょうの佳き日を招いた」とある。被爆の遺構を保存するか否か。広島も長崎も議論が揺れた。広島は被爆から21年たって、原爆ドームの保存が決まった。長崎では、被爆4年後から長崎市長の諮問機関で議論を重ね、浦上天主堂の廃墟を保存することで固まっていた。田川務市長(当時)も保存の意向を示すも、1956年の訪米後、態度を変える。市議会は全会一致で保存を決議するも、市長は「原爆の悲惨さを物語る資料としては適切にあらずと」頑なだったという。そして廃墟は撤去され、その一部だけが爆心地に移築された。山田かんは「残されたものは原爆の矮小化の危険さえはらむミニチュアにすぎなかった」などと指摘した。
怒りの広島、祈りの長崎。かつてそう言われた被爆地が共に大きく踏み出した年がある。元広島市長の平岡敬さんは、戦後50年、国際司法裁判所で伊藤一長長崎市長(当時)とともに、核兵器の使用は国際法違反と訴えた。アメリカの核の傘に頼る国の方針と異なる陳述をすることに伊藤市長は悩んでいたという。そんな伊藤さんの背中を押したのが平岡さんだった。平岡敬は「広島は国際法違反ということで行くから、足並みを揃えたほうがいいよといった」という。伊藤さんについて、平岡は「すごく平和運動に熱心になった たぶん陳述がきっかけだと思う」などと話していた。それから30年、核なき世界は遠ざかるばかり。平岡さんは、アメリカに過ちを認めさせることが核兵器廃絶の第一歩だと考えている。詩人・山田かんは、昭和天皇崩御の朝に思い出していたのは、被爆翌日の父の姿だった。


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