- 出演者
- 伊藤隆佑 村瀬健介 國本未華 日下部正樹 山本恵里伽
オープニング映像。
全国の気象情報を伝えた。台風11号の最新情報を伝えた。
- キーワード
- 台風11号
9日から最長9連休になるお盆休み。鉄道や空の便は行楽地で過ごす人たちで混雑がピークとなっている。新幹線は9日が予約のピーク。東海道新幹線は午前中が満席、午後は一部空席あり。10日も午前中はほぼ満席となっている。航空各社によると国内線の下り便は9日が混雑のピーク。国際線は10日までが混雑のピークとなっている。
9日、原爆投下から80年、長崎は祈りの朝を迎えた。長崎原爆の犠牲者は1945年末までに約7万4000人に上り、被爆者の平均年齢は86歳をこえた。平和祈念式典にはG7各国やロシアなど紛争当事国の大使らが参列した。鈴木史朗長崎市長は核兵器廃絶の実現に向けた具体的道筋を示すよう訴えた。
被爆80年を迎えた長崎。爆心地から約500mにある浦上天主堂の周辺には80年ぶりに復活する2つの鐘の音を聞こうと市民らが集まった。100年前迫害から解放された信徒たちが完成させた「浦上天主堂」。2つの塔に吊るされた大小の鐘が荘厳なハーモニーを響かせていたという。しかし1945年8月9日、アメリカ軍が投下した原爆で浦上天主堂は崩壊した。信者の手で大鐘は掘り出された。その鐘を蘇らせたのはジェームズ・ノーラン・ジュニアさん。祖父は原爆を開発したマンハッタン計画に参加した医師だった。ジェームズさんと森内さんとの出会いで鐘の復元が動き出した。ノーランさんは全米を周り講演。アメリカ市民から1800万円の寄付を集めた。そして、9日、原爆投下時刻の午前11時2分、「希望の聖カテリの鐘」と名付けられた鐘が鳴った。そのあとに被爆した大鐘が鳴った。
ドジャース・大谷翔平は1番・指名打者で出場。第1打席、ヒット。第3打席、エンタイトルツーベース。第4打席、ヒット。大谷は5打数3安打。ドジャース 5-3 ブルージェイズ。
マリナーズの本拠地・Tモバイルパークではイチローさんの殿堂を祝うイベントが開催された。イチローの通訳・ターナーさんの始球式ではイチローさんがキャッチャーとしてサプライズ登場した。10日、マリナーズの背番号「51」の永久欠番セレモニーが行われる。
なぜ君は戦争に?の番組宣伝。
お盆の帰省ラッシュで首都圏の高速道路は下りで一時33kmの渋滞が発生するなど、混在のピークとなっている。あすの渋滞予想は中央道・相模湖IC付近で45キロなどとなっている。
全国の気象情報を伝えた。
広島出身の元プロ野球選手・張本勲さん85歳。引退後も解説者として親しまれてきた。張本さんは60歳を過ぎるまで誰にも語れなかったことがある。それがあの日の広島での経験だった。1945年8月6日、原子爆弾が広島に投下された。張本さんは当時5歳、紙一重で生き延びた。半世紀以上が経ってからその経験を語りだしたのはなぜか。張本さんは「戦争を知らない。原爆がどこに落ちたの?という人がいた」などと話した。
80年前の今日、原爆を積んだ機体は北九州小倉に向かった。しかし視界が悪く長崎へとむかった。飛行をつづけ雲の切れ目があった場所が長崎浦上地区だった。浦上天主堂を象徴にカトリック信者が多く暮らす場所。当時新婦だった片岡さんは敵機がとんできたとき、急いで自宅に戻り白い光を目の当たりにした。11時2分、原爆が炸裂した瞬間だった。片岡さんは意識を失い、気づくと3メートルほどとばされて、さらに3メートル先に兄が立っていた。その様子は路傍に立っている石の地蔵みたいだったと話す。兄はその夜亡くなった。片岡さんは一瞬のうちだから、原爆は怖くない、あたりは深い静けさだったと話す。原爆の様子を絵で語るようになった築重地信さんは、原爆がカメラのストロボのようだと話す。その後は荼毘にふされるのを待つ人々の姿だった。
築地さんの絵には浦上天主堂の姿が多く描かれていた。80年前の浦上の人口は1万5000人。殆どがカトリック信者だった。カトリック信者の片岡津代さんは初めて神への不信を抱いた。親族を失い、自身にも顔に想いやけどを負った。被爆から3ヶ月半、浦上天主堂合同慰霊祭では医師である永井隆博士は、自身の病である白血病と闘いながら執筆活動をしていた。慰霊祭で永井博士は、原爆を神の摂理だと説いた。永井の孫、永井徳三郎さんは永井さんの真意を、みんなをどのように勇気づけられるか、同じキリスト信者としてこれは神の思し召しで、良いことも悪いことも受け止めようと話したのではと述べた。
長崎の鐘はベストセラーとなり神の摂理の考え方が広まった。永井は長崎市の名誉市民の称号や総理大臣表彰を受けるなど政治的にも引き上げられ浦上の聖者として神格化されていった。後に浦上燔祭説と名付け批判した高橋眞司さん。詩人の山田かんも鋭い批判を展開している。山田の次男・貴己さんは「初めて大人が“誰が始めたんだ?”という慟哭を父は非常に冷静に見ていた」などと振り返る。被爆の苦しみを抱え続けた片岡さんの苦しみを開放したのは36年後のローマ法王の言葉だった。片岡さんの苦悩の向き合ってきた高見三明名誉大司教は心中を吐露する。