ファミリーヒストリー ファミリーヒストリー 清水ミチコ
父に寄り添う1人の少女の名は清水美智子(ミチコ)。昭和35年1月に岐阜県高山市に生まれた。高山は江戸の頃の面影を残し、山間に築かれた町。ミチコは18歳で上京するまでこの町で暮らした。高山駅の近くにあるミチコの実家を訪ねると11歳年下の一郎さんがいた。父が自宅で経営していたカフェを受け継いで20年近くになる。父が幼い頃に祖父が亡くなったため、祖父や清水家に関することはほとんど伝えきれていない。清水家の歴史を探る手がかりがないか一郎さんに相談したところ、亡くなった祖母が保管していた古い箱を見つけ出してくれた。祖父の清水清作が作ったと思われる履歴書には原籍地は富山県婦負郡細入村蟹寺とあり、清水家の一番古い戸籍に書かれている本籍地と一致した。戸籍によるとミチコの曽祖父・竹次郎は加藤家の二男として蟹寺で生まれ後に清水家のいとと結婚し清水竹次郎となっていた。そして明治三十二年に竹次郎・いとの長男として生まれたのが祖父の清水清作である。ミチコはこの清作についてほとんど知らず、写真も見たことがない。どんな人物だったのか清作が育った細入村蟹寺・現在の富山市蟹寺に向かう。蟹寺地区は岐阜県との県境にある小さな集落である。現在の国道360号線沿いに清水家は暮らしていた。清作の幼少期の明治三十年代、清水家はどんなことを生業にしていたのか。細入村出身で地域の歴史に詳しい早稲田大学名誉教授・宮口侗廸さんによると明治時代になると30戸ぐらいの貧しい村集落だったとのこと。明治四十四年に猪谷尋常小学校を卒業となっており「細入百年の歩み」という写真集に清作が卒業した時の写真が載っていることがわかった。しかし少年たちの誰が清作かはわからなかった。大正9年に清作にとって転機となる一大事業が起こり、蟹寺地区に持ち上がった水力発電所の建設構想である。清作の履歴書によると大正十一年に電力会社の土木工手拝命とあり、23歳で発電所の建設に従事したことがわかる。清作を初め蟹寺の人々は発電所関連の仕事を得て150人ほどの集落は3000人にも膨れ上がった。しかし清作は発電所の完成を待たずに蟹寺を離れていたことがわかった。祖母が保管していた箱から出てきたのは4枚の書類。清作の人生を大きく変えることになったのが大正12年9月1日に発生した関東大震災である。清作は25歳で上京し、復興の仕事に従事するという決断をしていた。関東大震災の復興事業に詳しい日本大学理工学部土木工学科教授・大沢昌玄さんは「現場の人 肉体的な現場の人だったと思うが国に一定期間雇われて直接工事に携わっていたのではないか」とのことだった。大沢さんが清作の履歴書で注目したのは早稲田大学付属土木本科で学んでいたことであった。この学校は高度な技術者を養成するため、夜間に授業を行っていた。清作は一労働者として終わりたくないと自ら道を切り開こうとしていた。東京での復興局の仕事を終えた清作は昭和3年にゑいと結婚。同じ年に生まれたのが後のミチコの父・郁夫である。そして清作は新たなチャンスを掴んだ。新潟県南蒲原郡加茂町にある建設会社にスカウトされたのである。
明治40年創業の小柳組の社長である小柳英治さんに清作が小柳組での仕事について書いた履歴書を見てもらった。清作は現場主任というリーダーになり、200人近い人たちを率いていた。小柳組に残る工事記録によると清作は鉄道建設の工事・それに伴うトンネル工事など大きな仕事を任されていた。しかし土木技師としてまさにこれからという時、清作は突然の悲劇に襲われる。昭和7年、33歳という若さで急逝したのである。清水一郎さんは仕事関連の資材置き場みたいなところに夜行ってたら蜂に刺されて死んだとのことで、葬儀の写真と思うものを見せてくれた。写真には清作が仕事をしていた建設会社・小柳組の花輪も写っていた。果たしてこれは清作の葬儀の写真なのか確認してくれる人を見つけた。蟹寺で暮らしていた清水家の子孫と親戚にあたる加藤家の子孫である。2人に写真を見てもらうと写真の背景にある山並みの姿は現在と同じだという。これは富山県細入村蟹寺で撮影された葬儀写真で清水清作に間違いなかった。大黒柱を失った一家の祖母・ゑいは子どもを連れ蟹寺から新たな土地に移り住むことにした。
