- 出演者
- 松嶋菜々子
今回は「金閣寺炎上」を特集。金閣寺に火をつけたのは青年僧だったという。この事件は作家の創作意欲を触発し、三島由紀夫は小説「金閣寺」を発表したという。そして炎上した金閣寺を再建したのは住職だった村上慈海だという。
オープニング映像。
金閣寺炎上の最初の視点は、金閣寺の修行僧だった林養賢。林養賢は自分の布団や藁などを金閣寺に運び込むと、金閣寺と共に死ぬために火をつけたという。ここではそんな林養賢へ迫る。林養賢の大学の同級生だったという鈴木義孝は林養賢について「内気だが人間としては優しい」と語った。また林養賢を逮捕した刑事の若木松一が記した事件の資料も紹介された。林養賢は寺の子供として生まれて、母親は息子を大きな寺に入れたいと考えて勉強させたという。そして林養賢は金閣寺の住職である村上慈海の元で得度し大谷大学に進学した。しかし林養賢は次第に大学に姿を見せなくなっていった。
事件の1カ月前。林養賢は学校に来るように説得に来た鈴木義孝に金閣寺の写真を手渡したという。そして7月2日の午前3時頃に金閣寺に火をつけた。林養賢は死のうとしたが死にきることができず逮捕された。事件後に母親は自殺し、林養賢は最後まで自分のしたことを悪いとは認めなかったという。そして林養賢は懲役7年が言い渡された。
次の視点はこの事件で創作意欲を掻き立てられた三島由紀夫と水上勉。エッセイストの酒井順子は、2人が同じ事件に引かれながらも全く異なる視点で事件を見ていたことに驚いたと語り、「三島由紀夫は表日本、水上勉は裏日本という視点」だと酒井順子は語った。近年になって三島由紀夫の金閣寺創作時のノートが公開され、そこには三島由紀夫の内面が現れている様子だと解説された。
水上勉は20年かけて事件の背景を取材し、1979年にノンフィクション「金閣炎上」を出した。水上勉は放火事件当初は駆け出しの作家で、犯人は水上勉と境遇が非常に似ていたという。そのため林養賢の気持ちがよくわかったのではないかと酒井順子は語った。
最後の視点は金閣寺再興に尽力した住職の村上慈海。村上慈海は弟子の放火によって国宝を失ったことを詫びていたという。村上慈海の弟子だった西田承元は、事件について村上慈海は一言も口にしてなかったと語った。村上慈海は金閣寺の再建に動いたが、当時は戦争が終わって5年ということもあり、周囲の反応は冷ややかだった。そのため住職自ら托鉢するようになり、そこから支援の輪が広がったという。そして2年後に金閣寺再興の工事が始まったという。一方で林養賢は精神状態が悪化して意思疎通ができなくなっていったという。昭和30年に金閣寺が落慶し、林養賢は釈放された。ただ林養賢はそのまま病院に入院し、半年後に結核で死去したという。
西田承元は村上慈海の元で修行生活をしている中で驚いたことがあると語り、それは金閣寺の仏間には林養賢や林養賢の母の位牌も祀っているということだという。放火事件から35年後の1985年に村上慈海は死去したという。
番組の次回予告。