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2014年、福山雅治さんが発表した「クスノキ」。原爆で焼かれながらも奇跡的に芽吹いたクスノキをモチーフにしたいのちの賛歌。福島県の中学校では子どもたちが平和の尊さを考えるきっかけに。クスノキが育む平和の種。
クスノキとともに、これからの平和の話しをしよう。
爆心地から800mにある小高い森。長崎市の山王神社、被爆クスノキは観光スポットになっている。1945年8月9日、長崎は原子爆弾によって約7万4000人の命を奪われた。山王神社周辺も壊滅的な被害を受けた。被爆者の森田博満さんはクスノキを守り続けてきた。被爆クスノキにある治療の跡は、森田さんが仲間とともに資金を集めほどこした。1996年、山王神社の氏子たちが莫大な資金集めに尽力し、クスノキが青々とした姿を取り戻した。森田さんが被爆したのは10歳の時、爆心地から1.8km離れた自宅。戦後、家族を支えるため上京した森田さんは都会で差別を受けたという。転機となったのは被爆クスノキの存在。森田さんは38歳で鉄工所を起こした。グラバー園や西海橋の建設にも携わった。
被爆クスノキは福山雅治さんにとっても人生の指針となっていた。2016年、山王神社でその思いを語っていた。福山さんは「自分の感じていることが小さく思える、クスノキはそういう存在」と話す。福山さんは自身のラジオ番組で被爆二世だと話したところ、ネットニュースにとりあげられ拡散されていったという。楽曲「クスノキ」が誕生するまで24年たって発表することができた。曲の誕生から11年、そのメッセージは人々の心に新たな平和の種を芽吹かせ、広がりをみせている。
福島県郡山市の中学校教諭・星美由紀さんは少し変わった授業をしている。福山雅治の「クスノキ」の歌詞を紐解き戦争、平和を自分事にしてほしいと考えている。東日本大震災で起こった福島第一原発の事故。星さんは当時、娘たちを抱え県外に避難。全国8か所を転々とした避難生活は2年に及んだ。星さんは「クスノキという曲との出会い、衝撃の大きさが忘れられなくて。当時の長崎の人たちがクスノキに勇気づけられたか。私自身がクスノキにすごく支えられた、勇気をたくさんもらったと思っています」と述べた。
福山雅治の「クスノキ」に触れ自身のルーツを見つめ直すきっかけを得た人もいる。2024年9月21日にソヒャンスさんは宝塚市の平和イベントで「クスノキ」を演奏。在日コリアン3世で5歳から20歳まで朝鮮学校で過ごした。3月に長崎市の三菱兵器トンネル工場(跡)を訪ねた。当時、動員学徒など約1800人と朝鮮人800人~1000人が従事していた。
被爆クスノキの元で新しい命を探す人々がいた。被爆クスノキの種を苗に育て被爆クスノキ2世として全国に送り届けている。宮城県から沖縄まで全国233本。各地で平和の種を芽吹かせている。福岡県古賀市ではすべての小学校、中学校で植樹している。小学校では学習発表会で子どもたちがオリジナルの平和劇「長崎から未来へ」を披露した。
去年秋、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞。被爆者たちの核兵器廃絶の訴えが世界に評価された。
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スタジアムシティのステージに立った福山もその意味を噛み締めていた。福山雅治は「非常に大きな意味があると思っている。平和に対する思いが願いがここで一つまた一歩前進したのではないか」などと述べた。この春、福山はクスノキに新たな生命を吹き込むことを決意した。国内外で活躍する名だたるプレーヤーたちが集まり、ストリングスアレンジを施し思いを一つにする合唱曲「クスノキ-500年の風に吹かれて-」へと進化させた。今夜、福山はNHKの音楽特番「MUSIC GIFT」で長崎から新たな「クスノキ」を5000を超える人々と熱唱する。
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