- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 國村隼
オープニング映像。
國村隼は本名米村喜洋。昭和30年に生まれた。戸籍にある最も古い先祖は5代前の太右衛門。まずは父方のルーツ、熊本県八代市を訪ねる。階下釈迦堂に残されていた延宝9年の棟札に太右衛門の名前があった。米村家の先祖は代々太右衛門を名乗り、周辺の寺や神社の維持管理に携わってきた。さらに八代市内で米村家の子孫が見つかった。國村と3代前の曽祖父でつながる川北宜子さんと夫の武司さん。宮大工をやっていた曽祖父・嘉次郎の次男として生まれたのが祖父・勝蔵だ。八千把小学校で記録が見つかった。勝蔵は父の跡を継ぎ宮大工として働き始める。勝蔵の孫・平井陽子さんに話を聞いた。勝蔵は昭和3年に家族でサイパンへ渡る。昭和7年に父・洋が誕生。勝蔵はパラオに移住し、南洋神社の創建に従事した。南洋庁に技術者として雇われ、高収入を得ていた。洋と同じ頃、パラオの小学校に通っていた方々に当時の生活を聞いた。太平洋戦争が始まり、祖母・スナと子供たちは日本へ引き揚げることに。昭和19年7月25日、天応丸に乗り込もうとした時、アメリカ軍の機銃掃射が船を襲った。娘の夫・ニコラス・ランブレクトさんは洋からその時の話を聞いていた。命からがらパラオを出航し、洋たちは神戸に到着。パラオに残った勝蔵は臨時召集され、37歳で亡くなった。
國村隼は知ってることもあれば全く知らなかったこともあったと話した。
昭和19年、パラオから熊本県八代市の実家に引き揚げてからが苦難の始まりだった。父・洋は八千把国民学校に編入。パラオ育ちで標準語を話す洋は周囲から浮いていた。そんな中、祖母・スナが脳卒中で寝たきりに。洋の兄・勝嘉が一家7人の暮らしを支えた。昭和24年、洋は八代高等学校に進学。成績優秀で将来は教師を夢見ていた。しかし勝嘉がレッドパージで解雇され、行方知れずに。高校の同学年だった母・リツ子さんは現在92歳。当時の洋の印象を聞いた。
井本家のルーツも熊本県八代市にある。リツ子さんの姪・井本ヌイ子さんが作成した井本家の家系図を紹介。曽祖父・辰太郎は農業の傍ら桶職人でもあった。辰太郎の孫・吉村トシ子さんは、辰太郎は酒飲みで飲み友にだまされたと話した。辰太郎は借金を抱え、多くの田畑を手放すことに。井本家は厳しい暮らしに陥る。祖父・茂喜は借金返済のため養蚕業を始めて成功。全てを取り戻した。母・リツ子は昭和8年生まれ。にぎやかな家で伸び伸び育った。八代高等学校でパラオ帰りの米村洋と出会い、交際を開始する。高校卒業後、洋は家族を養うため小学校の助教諭として働き始めた。リツ子は地元の病院で看護助手に。洋と結婚するのは寝たきりの母を看病し、妹や弟の面倒を見ることを意味していた。家族の反対を押し切って、昭和29年にリツ子は洋と結婚した。
國村隼は両親の馴れ初めを初めて聞いたと話した。
昭和30年、喜洋が誕生。翌年、スナが亡くなる。一家は兵庫県に移り住み、洋は外国車販売の営業職に就いた。リツ子はタクシー会社の事務員などをして働き、喜洋はいつもひとりぼっちだった。喜洋にとって洋はどこか遠い存在だった。
1人で過ごすことが多かった喜洋は達観した大人びた少年になる。小学校の演劇部で、5年生で唯一抜擢されて役がついたという。洋は時々自分が扱う外国車に喜洋を乗せたり、車の説明をしたりしていた。車好きになり、エンジニアを目指すようになった喜洋は大阪府立工業高等専門学校に進学。しかし進級できず20歳で中退。友人の岡育生さんに勧められて大阪放送劇団のオーディションを受けた。100人以上の応募者の中から合格。21歳で俳優デビューした。
國村隼は幼い頃クマのぬいぐるみに執着があったと話した。
母・リツ子さんは誰よりも息子を誇りに思っている。父・洋さんも息子の活躍を陰ながら応援していた。令和7年4月、洋さんは93歳で亡くなった。亡くなる前にパラオのことを話していた。70年前に助教諭をやっていた洋さんの教え子、藤田孝一さんが当時の思い出を語った。病気で入院した洋さんを同級生たちと見舞いに行ったという。
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ファミリーヒストリーの次回予告。
