- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 平野レミ
オープニング映像。料理愛好家・平野レミのルーツに迫る。
- キーワード
- ヘンリイ・パイク・ブイ牛トマ
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。平野の祖父はヘンリー・パイク・ブイ。日本美術の愛好家だったヘンリーは、明治時代、アメリカと日本を行き来していた。ヘンリーの弟・ロバートは長崎県で医師をしていた。ロバートの孫はアメリカ・インディアナ州で暮らしている。ブイ家はワインを扱うスコットランドの名家だった。16世紀の王室の記録に、スコットランド王直属のワインマスターとしてジェロームというブイ家の先祖の名前が記されていた。平野の7代前の先祖 ジョン・ブイ・シニアは、18歳の時、新たな活路を求めてアメリカ・メリーランド州を目指した。ジョンは地元の有力者たちの信頼を得て、計画的に土地を増やし、たばこの栽培で成功した。その繁栄は子孫たちにも受け継がれ、一族からはメリーランド州の議員や知事を輩出している。その功績を称え、メリーランドの町にブイ家の名が付けられるほどだった。
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。平野の祖父・ヘンリーはカリフォルニア州の大学を卒業後、弁護士となった。弁護士となって程なく、ヘンリーはパリに留学。ヨーロッパの数々の音楽家を輩出したパリ音楽院でヴァイオリンを学んだ。この頃、ヨーロッパでは日本美術への関心が高まっていた。ヘンリーは葛飾北斎が描く美しい風景に惹かれ、浮世絵を研究。日本への興味を深めていった。ヘンリーには芸術への思いを分かち合える女性がいた。15歳年上のピアニスト・アグネス。アグネスは若くして夫を死別。息子の1人も事故で失い、寂しさを抱えていた。1879年、ヘンリーが31歳の時、2人は結婚。結婚後、ヘンリーはアメリカ・サンマテオで農園を経営。順風満帆だったが、1893年、アグネスを病気で失った。失意の中、故郷を離れようと考えたヘンリーが向かったのは憧れの日本だった。ヘンリーは京都府に居を構え、日本語と日本画の勉強に明け暮れた。来日から3年後、ヘンリーは、後の平野の祖母となる平野駒に出会う。そして、1900年、後の平野の父となる長男・威馬雄が誕生した。威馬雄が9歳の時、ヘンリーはアメリカへ帰国。経営する広大な農園と仕事を抱え、日本に滞在し続けるのは難しかった。ヘンリーが子どもたちを連れ帰ることは叶わなかった。当時、アメリカの多くの州では日本人女性との結婚が法律で禁じられていたため。家族は遠く海を隔てた歳月を送ることになる。
VTRを見た平野レミは「ブイおじいさんもとても辛かったでしょうね」などとコメントした。
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- ヘンリイ・パイク・ブイ平野駒
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。祖母・平野駒は、ヘンリーの帰国後も、近所で琴を教え、2人の息子を気丈に育てた。異国の文化を積極的に取り入れようとする平野家で駒は恵まれた少女時代を過ごした。しかし、父の死後、兄も病に倒れて寝たきりの生活を余儀なくされた。駒は親戚が営む料亭に養女に出されることになる。その後、ニ位局の柳原愛子に仕えることになり、愛子の取り持ちでヘンリーと結ばれた。
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。平野の父・威馬雄が思春期になると、駒は頭を悩ませることが少なくなかった。成長するにつれ、威馬雄の面差しは外国人の子どもであることを周囲に感じさせるものとなっていく。学校も幾度と変わった。駒は威馬雄を傷つけまいと必死に守ろうとしていた。そんな日々の中、威馬雄の楽しみはアメリカの父から度々届くローマ字綴りの手紙。宛て名には決まって「Kawaii Remi chan」と記されていた。それは、ヘンリーが威馬雄を呼ぶときの愛称だった。威馬雄が17歳になった1918年、ヘンリーがアメリカ国務省の特別使節として9年ぶりに来日。ヘンリーは学校を退学になっても勉強だけは続けるべきと寝坊の威馬雄を毎朝ヴァイオリンを奏でて起こした。1920年、ヘンリーは再びアメリカへ帰国。ヘンリーは帰国後、北カリフォルニア日米協会を創設。日本人移民を排斥から守ろうと尽力した。ヘンリーは排日運動を抑えるため、陳情や講演活動に奔走。そのさなか、脳出血で倒れ、帰らぬ人となった。
平野レミが父・威馬雄に「お父さんカッコイイね」「鼻高いね」と言うと、「顔の話はやめろ」と必ず返されたという。
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- ヘンリイ・パイク・ブイ平野威馬雄
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。威馬雄が22歳の時、友人の詩人・サトウハチローらと雑誌を刊行。文筆活動に勤しんだ。程なく威馬雄は結婚し、家庭を築いた。しかし、平野家は窮地に陥る。駒がヘンリーの遺してくれた財産を失ってしまったのだ。財産の管理を任せていた親族に使い込まれ、駒は心労で寝込んでしまった。さらにその頃、威馬雄は重度のコカイン中毒に陥っていた。鼻風邪に効くからと友人に進められたのがきっかけだった。これをきっかけに妻との仲も破綻した。荒みきった威馬雄に運命の出会いが訪れる。ふと立ち寄った下町のバーで働いていた女性・田熊清子。後の平野の母。威馬雄を献身的に支え、コカイン中毒から救った。
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。平野の母・清子は、東京・深川の商家の3女として生まれた。朝は家長の要助に床におでこがつくまでお辞儀して挨拶するような厳格な家風だった。そんな堅苦しい家で育った清子だが大の映画好き。女学校時代から授業を抜け出しては浅草に入り浸るほど二枚目の映画俳優たちに憧れていた。厳しい父に反発し、清子は卒業後、家を出てバーで働くように。この店に客としてやって来たのが威馬雄だった。
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。1941年、太平洋戦争が勃発。翻訳書の検閲が厳しく、威馬雄は出版願いを退けられることも少なくなかった。1945年に終戦を迎えると、それまで威馬雄を蔑んできた憲兵や役人たちが手のひらを返したように次々と訪ねてきた。「先生の口で米軍の手から我々を守ってください」などと言われ、威馬雄は腹が立ったと記している。
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。威馬雄は1953年、混血児と呼ばれていた子どもたちを支援する「レミの会」を結成する。当時、アメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた子どもたちの多くが偏見と差別の目に晒されていた。
料理愛好家・平野レミのルーツに迫った。平野レミにとって威馬雄は最大の理解者だった。高校生の頃、進学校に入学したものの、厳格な校風と勉強についていけず思い悩んでいた。学校には行かず、公園に通い続けていた平野。ある日、意を決して父にその思いを伝えると、ただ一言「辞めろ」。理由も聞かなかった。同時に「好きなことを徹底的にやれ」と言われたという。そして、平野はシャンソン歌手の道へ。
平野レミは再びシャンソン歌手としての活動を始めている。この日歌うのは亡き夫・和田誠が作詞した「シャンソン・ド・レミ」。平野が歌い続けることを応援してきた父と夫。2人は今、横浜の外国人墓地で共に眠っている。
アメリカ・サンマテオの裁判所に、平野の祖父 ヘンリー・パイク・ブイの遺言書が遺されていた。亡くなる2年前に記されていた遺言。そこには相続について書かれていた。ヘンリーは晩年、農園や家の売却の準備を進めていた。実は、家族が住む日本へ移り住もうとしていたのだ。
次回予告が流れた。
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