- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 岩崎宏美
オープニング映像。ゲストは岩崎宏美。今年のNHK紅白歌合戦に出場する。
岩崎宏美は奄美大島出身の母を持つ。戸籍を辿ると、曽祖父の畠丑太郎を確認でき、取材班はひ孫にインタビュー。丑太郎はさとうきびで黒糖、焼酎をつくり、暮らしていた。妻のデンマツは産婆の役目を果たすなど、信頼が厚かったという。
奄美大島における唄者とは優れた歌い手で、集落に伝わる唄を継承する存在でもあった。その1人が岩崎宏美の曾祖母、畠デンマツだった。有名になると島唄の歌詞に名前が登場するという。「徳之島節」に伝松というフレーズがあるが、畠デンマツを指しているのかは分からなかった。
岩崎宏美の祖父である重蔵は妻のウフジとの間に5人の女の子を授かり、1人がスエ。岩崎宏美の母であり、元同級生の染サチさんは「特別な声の持ち主だった」と振り返った。戦火で母とともに鹿児島市へ疎開することになり、島唄に触れる機会はほとんど無くなった。また、鹿児島大学の中嶋助教は「本土の人たち以上に苦しかったと思われる」と話す。仕事、家もまともに確保できない人が多かったという。加えて、復員した重蔵が47歳で死去。故郷の奄美は米軍の占領下にあり、簡単に帰ることはできない。1949年、スエは東京で姉夫婦が経営する店で働くなか、岩崎兼三と出会う。
岩崎宏美は岩崎家の家系譜を持っていて、先祖は世界文化遺産に登録された佐渡島の金山の麓に広がる街で生まれた。江戸時代の後半、金山は衰退する。1902年、岩崎家に容久が誕生。学校を卒業すると、1920年に上京。
上京した容久は製材所に勤務していたといい、長岡造形大学の平山学長は当時の資料から、「非常に大きい(会社だ)と思います」と話す。1925年、ツタと結婚するも、東京大空襲で勤務先も家も焼失した。1945年、容久は製材加工機の販売会社を設立し、GHQのもと禁止されていた剣道の復活にも尽力したという。
容久の長男、兼三は動物好きで、伝書鳩の飼育に夢中だった。岩崎宏美の姉である初美によると、シェパード、チャボ、鯉なども飼っていたという。容久は自らの会社を兼三に継がせようとしていて、獣医を志していた兼三は従う他なかった。一軒の料理屋でスエと出会い、のちに結婚。1958年、岩崎宏美が誕生。
岩崎宏美の父、兼三は合格率1パーセントを満たない剣道8段を目指すなか、鍛える厳しさは日常生活にも及んだ。一方、岩崎宏美は中学時代、オーディション番組「スター誕生!」に出場。芸能事務所にも認められたが、兼三は猛反対。宏美は食い下がり、「歌手活動は20歳まで」と約束。16歳でデビューすると、90万枚のヒットを記録した。だが、父との約束は着実に近づく。「思秋期」のレコーディング中、歌詞と自らの境遇を重ねずにはいられず、泣き出したこともあった。発表後、兼三は歌手を止めるよう迫ることはなかった。
岩崎宏美は23歳の時に「聖母たちのララバイ」を発表し、同年に日本歌謡大賞に輝いた。一方、母のスエは故郷の奄美を思い、同郷者の集いに参加していた。参加者がカラオケで岩崎宏美の曲を歌うと、祝儀をあげていたという。また、兼三は57歳の時、剣道の最高段位である8段を取得。老後は地域の子どもたちの稽古に熱心だった。理事が務める団体の会合で岩崎宏美に歌を披露してほしいと頼んだこともあった。参加者の藤井一は兼三が見せた笑顔が忘れられないという。剣道の稽古に励んだ内田龍雄は「思秋期」を聞いた兼三が「ひと皮もふた皮も向けた歌手になった」と話すのを耳にしたという。
次回予告が流れた。
