- 出演者
- 所ジョージ 林修 萬田久子 平愛梨
オープニング映像。
萬田は昔は男の人に好かれようとしてどこでも暮らせると言っていたが今は無理と話した。平は夫がいればどこでも住めると話した。
沖縄県のポツンと一軒家を調査。衛星写真には森を切り拓いた敷地に1棟の建物や畑が写っていた。捜索隊は最寄りの集落でログハウスに住む剛和さんに話を聞いた。広島出身で妻は千葉県出身。海で仕事がしたくて沖縄に来たという。区長の家まで案内してもらった。隣の区長に連絡してもらうことができた。待ち合わせをした隣の集落の公民館に行くと、地域に詳しい長老・宗元さんに会うことができ前区長の良彦さんも来てくれた。目指すポツンと一軒家はみかん畑の作業小屋で持ち主は麓に住んでいるとのことだった。
沖縄県のポツンと一軒家を訪ね、主の親寄さんに話を聞いた。建物はみかんを収穫するときの作業小屋で、親寄さんは麓にある家から小山で通っている。木製の電柱の払い下げ品を使って24、5年前に建てた。水は沢から引き、電気は発電機を使用。トイレとシャワーもあり、2階には板間があった。昔は村有地で、65年前に購入。当時は道がないため5キロの獣道を歩いて通っていた。
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沖縄県のポツンと一軒家を訪ね、主の親寄さんに話を聞いた。親寄さんは麓の集落で6人兄弟の長男として生まれ、4歳のときに沖縄は太平洋戦争の戦場となった。親寄さんは戦闘機の種類で音が違った、防空壕の歌を教えられていたと話した。戦後、住民の食料は米軍によって配給された。ポーク缶やチョコレート、アイスクリームが美味しかったと話した。連合国による占領が終わっても沖縄は27年間アメリカの統治下に置かれた。使用する通貨はドルで右側通行だったという。1972年に日本に返還されたが交通規則の変更には準備が必要だったため、規則が変わったのは1978年7月30日だった。当時役場に車で通勤していた親寄さんは戸惑ったという。
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沖縄県のポツンと一軒家を訪ね、主の親寄さんに話を聞いた。1959年に山奥の村有地を購入。父親と2人で5年かけて切り拓きみかん畑にした。畑には280本ほどの柑橘が植えられ、タンカンやシークヮーサーが成っていた。畑では婿の興也さんが手伝いに来ていた。お昼には妻の津八子さんがお昼ご飯を持ってきた。捜索隊は田芋田楽、味噌汁などを一緒に食べさせてもらった。親寄さんは新しく温州みかんも育てようとしている。
平は「貴重なお話を聞けた」「4歳の記憶ってあるんですね」と話した。
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