- 出演者
- -
オープニング映像。この番組はかつて世の中に驚きや感動を与えた人物・出来事を珠玉の話芸とお宝映像で現代によみがえらせるニッポンの新しい昔話。今回は講談師・神田阿久鯉が「千代の富士 一代記」に挑む。
昭和56年初場所・優勝決定戦、千代の富士vs北の湖を映像で紹介。視聴率は大相撲中継歴代最高の52.2%を記録した。このわずか2年前まで千代の富士は相撲をやめるかどうかの土俵際に追い詰められていた。千代の富士が起こした奇跡を紹介する。
昭和45年、後に千代の富士となる秋元貢(15)が九重部屋に入門。兄弟子の横綱・北の富士を相手に稽古に励んだ。その姿は飢えたオオカミのようだったことから「ウルフ」と呼ばれるようになる。昭和48年の春場所で千代の富士は左肩を脱臼。次の場所でも脱臼し、ひどい時は夜に寝返りを打つだけでも肩が抜けてしまった。右肩も脱臼し、ふさぎ込んでしまった千代の富士を救ったのは、新たに九重親方となった元北の富士だった。自分の相撲を見つけろと言われた千代の富士は猛烈な筋力トレーニングを始め、弱点だった肩の関節を筋肉で固めた。それまでの強引な投げ技をやめ、立合いから一気に前に出る速攻相撲に変えた。佐渡ヶ嶽部屋へ出稽古に趣き、一番苦手としていた大きな体の琴風と稽古に励んだ。
千代の富士が東の関脇としてのぞんだ昭和56年初場所、初日の相手は琴風だった。寄り切りで勝利した千代の富士は勢いに乗り4連勝。5日目に一度も勝ったことがない横綱・輪島に勝利すると連勝を続け、12日目は横綱・若乃花に勝利。14戦全勝の単独トップで千秋楽を迎えた。相手は一敗で追う横綱・北の湖。北の湖が勝利し、優勝決定戦にもつれ込んだ。優勝決定戦では千代の富士が勝利して優勝。千代の富士は敗れた一番で北の湖の弱点「ヒザ」を見抜いていた。初場所後に大関に昇進した千代の富士はこの年に横綱となった。
横綱となった千代の富士は優勝を重ねた。10回目の優勝を果たした昭和59年九州場所で千代の富士は記念撮影の場に1歳の長女・優ちゃんを連れてきた。当時の相撲界では記念撮影であっても女性や子どもが入るのはご法度という空気があったが、千代の富士は賜杯を持って一緒に記念撮影した。その後、長男・剛、次女・梢とも記念撮影をしている。家族思いだった千代の富士は後に北勝海となる保志も弟のようにかわいがった。53連勝の大記録を打ち立てた千代の富士に平成元年2月、三女・愛ちゃんが誕生した。3月の春場所で優勝した千代の富士は愛ちゃんと一緒に記念撮影を果たしたが、6月に愛ちゃんは亡くなった。7月の名古屋場所、千秋楽の相手は12勝3敗で並んだ北勝海。史上初となる同部屋横綱の優勝決定戦となった。千代の富士が勝利して28回目の優勝を果たした。
後に千代の富士となる15歳の貢少年が父親に連れられ訪れたのは北海道巡業中の力士の宿舎。各界のプリンスと騒がれていた当時20歳の貴ノ花に会った。体は小さいが大関だった貴ノ花に憧れた。入門後も貴ノ花は「早く上にあがってこい」と励ましてくれる存在だった。入門8年目で初対戦が実現。千代の富士が寄り切りで勝利した。それから3年後、千代の富士が初優勝した場所で貴ノ花は引退を決意した。平成3年の夏場所、千代の富士の初日の相手は貴ノ花の息子・貴花田だった。貴花田が寄り切りで勝利。この2日後に千代の富士は引退を表明した。「体力の限界」で知られる引退会見では「最後に貴花田とあたってね。若い強い芽がずいぶん出てきた。肩の荷が下りた」と語っていた。千代の富士が満身創痍になりながら踏ん張り続けたのは次の世代が伸びるまでは自分が頑張るという責任感だった。貴花田に敗れ花道を下がる千代の富士には笑みがあった。35歳で引退を決意した千代の富士は通算1045勝。ファンのため、相撲界のため、家族のために戦い抜いた22年間の土俵人生だった。
「大河ドラマ 光る君へ」の番組宣伝。
「NHKスペシャル」の番組宣伝。
「100カメ」の番組宣伝。
「燕は戻ってこない」の番組宣伝。