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今年の主役は大谷翔平。かつて遠い世界だったメジャーリーグが身近な存在になっている。その源流を物語る写真がある。1905年、早稲田大学野球部の球界初のアメリカ遠征。進取の精神の元、自ら新しいことに取り組み、アメリカの野球文化を日本に持ち帰った。その魂は受け継がれて現代へ。2004年、早稲田大学卒の青木宣親は日米通算2730安打、今年10月に引退した。2011年卒の斎藤佑樹は早稲田野球の申し子とされた。2人が大学スポーツのレガシーを紐解く。
オープニング映像。
青木宣親と斎藤佑樹が西東京市にある早稲田大学の野球場にやってきた。今年で創部124年。グランド整備について、青木宣親は外野を鉄のトンボでずっと引いていた、外野は人数が少なく1年生のときはずっと整備をやらされていたという。
21年前、青木宣親はドラフト4位でヤクルトに入団。阪神から1位指名を受けた鳥谷敬ら同級生3人とともにプロ入りした。2年目に史上2人目の200本安打達成し、球界を代表する選手になった。流し打ちを武器にメジャーリーグ通算774安打。高校時代は全く無名のピッチャーで、早稲田への進学は一般の指定校推薦だった。大学4年間で何が起きたのか?母校での学びについて、地味な技を生きる道にしていたという。当時の監督・野村徹さんは、青木さんに俊足を生かした小技を徹底指導した。青木さんはつなぎ役も大切な存在だということがわかり、それがのちに生きたという。はじめは戸惑ったが、できるようになり自分に自信が持てるようになり、大学時代が基礎となってやれているのは間違いないと話す。
早稲田大学の早稲田大学校歌は創設者・大隈重信の理念を歌っているが、その中に「進取の精神」というキーワードが出てくる。進取の精神とは自ら新しいことに取り組むこと。野球部もその志から生まれる。初代部長の安部磯雄が日本では当時まだ馴染みが薄かった野球を人間教育に活かそうと考えた。野球道具を揃えて試行錯誤のスタート。4年後の1905年には球界初のアメリカ遠征を決行。彼らが切り開いた道が持ち帰った魂が大谷翔平につなげがっていく。知識は学問から、人格はスポーツから、が伝わる教え。大学のミュージアムには戦時中の野球道具が展示されている。部員たちが防空壕で野球道具を保管し、戦後他の大学に配り野球復興を後押しした。
斎藤佑樹は2006年、夏の甲子園で優勝投手になった。そのままプロに行く道もあったが、大学進学を希望し、2007年に早稲田大学に進学。大学でもエースとして全国制覇を果たした。思い出のグラウンドには思い出の一角がある。外野のフェンス沿いは投手が走り込みをするゾーンで、はじからはじまで気が遠くなるほど走り込みをしたという。振り返るとつらい練習ほどその後の糧になったという。
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ブルペンで待っていたのは早稲田が生んだ伝説の投手・佐竹功年さん。トヨタ自動車で全国優勝8回、ミスター社会人野球と呼ばれた。今年夏、41歳で現役を引退した。同じ年に引退した青木宣親、再会は20年ぶりだそう。鬼監督だった野村徹さん。佐竹さんはチームをベテランとして引っ張る中で野村さんの姿を度々思い出したという。心からの熱意は人に伝わると学んだという。引退後は社員としてスポーツ事業に携わる佐竹さんは恩師からの教えを胸に社会人野球の発展に力を尽くす。
3人がやってきたのは早稲田大学野球部御用達の定食屋「明喜屋」。店内の色紙には青木さんや斎藤さんのサインがある。青木宣親定番メニューは「なすと豚肉炒め」、佐竹さんのと斎藤さんの定番メニューは「豚肉とキャベツの唐辛子味噌炒め」。青木さんは「レタスチャーハン」も追加した。店主の高橋明紀さんは、青木さんは大学受験に和田毅さんの練習をすごく参考にしていたという。
早稲田大学は今年、東京六大学野球で快進撃を見せた。春と秋のリーグ戦を連覇し、9年ぶりの偉業を果たした。チームを率いるのが小宮山悟さん。メジャーでもプレーし、通算117勝、野球界随一の理論派として知られる。早稲田の監督に就任したのは5年前、助監督の金森栄治さんとともにチーム作りをしてきた。指導術にはどんな秘密があるのか?練習中、監督はほぼ声をかけない、見るのが仕事だという。彼らがどうしたいのかを良い悪いの判断をしてきたという。見守って促すという指導術。練習は学生コーチが主導し、監督の意見は学生コーチを通して選手に伝えられる。部員たちは初代部長・安部磯雄と初代監督・飛田穂洲の銅像に深々と頭を下げていた。初代監督・飛田穂洲が残し100年以上受け継がれてきた大切な言葉「一球入魂」。
3人は野球部の選手寮にやってきた。主力とされる約30人が神職をともにする。初代部長・安部磯雄さんの石碑に頭を下げてから寮に入る。創部124年、これまでの全OBの名札がある。赤い文字は亡くなった方。中には時代を彩った有名選手も。名札の上には青木さんの代の写真があった。佐竹さんは1年生から寮生になり、上級生との共同生活にビビりながら入寮したという。ただ、先輩が率先して動くという学びがあったという。傍らにはかつてアメリカ遠征を繰り返してきたころの写真がある。母校での学びについて、一球入魂は一発で決める、一球目のために万全の準備をすること、などと話した。
早稲田大学野球部の出身者は様々な場所で活躍している。岡田彰布さんは去年、阪神監督として38年ぶりの日本一になった。江尻慎太さんはかつてプロとして活躍し、今は社長としてアスリートのセカンドキャリアを支援している。日本ハムファイターズのスカウト部長・大渕隆さんは大谷翔平の運命を変えた1人。高校卒業時にメジャー入りを希望していた大谷を日本ハムがドラフト指名した。交渉にあたったのが大渕さんだった。大渕さんが二刀流の育成計画を提示し、日本ハムに入団した。その影には早稲田の理念があった。大渕さんは進取の精神、新しい挑戦をすることが大事だと考えていたという。大渕さんたちOBが現役部員とともに取り組みが通称「あそび場」。野球部のグラウンドを開放し、子どもたちに思いっきり遊んでもらう。中心メンバーの中には野球部の現役マネージャーもいる。この日は往年の名打者・谷沢健一さんの姿もあった。
3人は再びグラウンドにやってきた。早稲田大学野球部名物の名前テスト、入部1か月が過ぎた1年生に先輩の名前・学部・出身高を出題するというもの。プレッシャーと記憶力が大事で間違えたらダッシュしていたという。今年10月、青木宣親の引退試合。大観衆にみせたのは代名詞の流し打ちだった。野村徹さんが駆けつけてくれた。斎藤佑樹の引退試合は3年前、最後の投球はフォアボール。けがに泣かされた11年のプロ生活だった。今は起業家として活動し、子ども専用の野球場を建設している。
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けがに泣かされた11年、プロを引退した斎藤佑樹さんは今支えになっている言葉があるという。大学時代の恩師・應武篤良監督からの言葉。引退するときに報告をしたら、「これからが勝負だ、ジジイになった時に同世代で野球界に一番貢献していればいいんだ、これからが本場だ」と言われたという。早稲田大学野球の「母校にのチカラ」について、青木宣親は考え方や取り組み方とか心の部分が大事、気持ちがないと技術も上がってこない、大学4年間でそれを学んだ、気持ちがあるから行動に移せると話した。佐竹功年は積み重ねた土台がいろいろなことに挑戦できることを学んだという。