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世界中から多くの人が訪れる平和公園。原爆の記憶を伝え亡くなった人たちに祈りを捧げる場所。原爆ドームや慰霊碑前では人々が思いを馳せている。それぞれの願いを胸にこの場所を訪れる人々。その平和公園の一角に今も知られていない場所がある。原爆供養塔。広島で最も多くの原爆犠牲者が眠る場所。この一帯はかつて慈仙寺の鼻と呼ばれていた。数え切れない遺体が運ばれ火葬が行われた。火葬された遺骨の多くは身元が分からないままだった。納骨室には約7万人分の原爆犠牲者の遺骨が納められている。今も引き取り手のない遺骨や身元が分からない遺骨が眠っている。今は平和公園となった場所はかつて中島地区と呼ばれる街があった。路面電車が走り商店が軒を連ねる。人々のごく普通の生活があった。1945年8月6日、午前8時15分。1発の原子爆弾が広島の上空で炸裂した。熱線と爆風、そして放射線が街と暮らしを一瞬で奪った。建物疎開に動員されていた多くの生徒たちもいた。広島市立第一高等女学校では666人が犠牲となった。広島市内では7000人を超える生徒が犠牲となった。あの日の記憶は手記となって今に伝えられている。爆心地に近い慈仙寺の鼻にも遺体が運び込まれた。この場所は臨時の火葬場となった。原爆投下から78年を迎えようとしている2023年5月6日。吉川住職が向かう先は原爆供養塔。供養するため通い続けていた。吉川住職は60年以上、この日を守り続けてきた。毎月6日、吉川住職は60年以上もの間、この場所を通い続けてきたのか。
毎月6日に営まれる原爆供養。始まりは戦後間もない広島にあった。資料には2人の僧侶が始めた供養の記録が残されていた。國居道憲さんと吉川元晴さんを中心に被爆から5か月後の1946年1月、広島市戦災死没者供養塔を設立された。遺骨を収拾し供養するためだった。1946年5月、粗大供養塔が建立された。祈りの場は少しずつ形になっていった。7月には礼拝堂が完成し行き場のない遺骨あ納められていった。戦後の苦しい時代、人々は少しずつ寄せ施設の実りを手向けた。月命日の供養は1945年10月に始まった。毎月6日、法話を続けることを決める。現在の原爆供養塔が完成した翌年1956年12月、吉川元晴さんが急逝した。翌月、信晴さんが初めて父に代わって月供養を始める。多くの人が訪れた。多いときには30人近くが参列したという。その後、参列者は少なくなり吉川住職ただ1人で続ける月もあった。渡部さんは1999年から月命日の供養を支えてきた。吉川住職はこの場所を訪れる。
2024年10月6日。きっかは自宅で倒れ息を引き取った。87歳だった。長男が一時帰国した。月供養は平住職にお願いすることとなった。平住職は「断られ私に連絡が来た。私に回ってきた、それは1つの縁だろうと思ったので引き受けた」と語る。毎月6日の祈りは今も続いている。
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