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オープニング映像。
京都嵐山にやってきたのは渡辺いっけい。2019年に開館した福田美術館は伊藤若冲や円山応挙などの日本美術を所蔵している。ここにし発見された絵があるという。見つかった伊藤若冲の作品は果蔬図巻。縦30センチあまりの長さ3メートルの52種の野菜や果物が絹地に彩色された絵巻。始まりは柑橘類からで、キクダイダイやユズがある。その後ろには京ウドが背伸びをしている。クワイを彩る鮮やかな淡い色など見事な色彩を残している。
伊藤若冲の果蔬図巻には没骨法など多彩な技法が使用されている。近衛がなぜ伊藤若冲の真筆とわかったのか?岡田秀之さんは翌年い書かれた菜蟲譜と画風や形が似ていたためだという。
伊藤若冲の菜蟲譜は昭和のはじめに行方不明になり73年後に再発見された。11mの絵巻野菜や果物に加えカブトムシやカエルなどの生き物たちが描かれている。果蔬図巻の1年後に描かれたものだという。辻さんは当時菜蟲譜の撮影に立ち会ったという。
辻惟雄さんは菜蟲譜と果蔬図巻について両方とも生き生きしているが、一年早く描かれただけあり果蔬図巻には初発性が感じられこうした巻物は初めて描いたような初々しさを感じられるという。同じ種類をそのままなぞるのではなく、意図的に変化させているという。果蔬図巻のブドウは葉っぱが来るっと丸めてある。しかし菜蟲譜の葉っぱはオーソドックスに広がっている。横並びに野菜や果物なかでアクセントになっているという。
伊藤若冲は青物問屋の桝屋の嫡男として生まれる。父の死に伴い23歳の若さで家督をついで4代目の伊藤源左衛門を名乗ったが裕福な大店の旦那衆の一人となった。しかし仏教に傾倒した若冲は酒も遊びもやらずに相国寺の大典禅師と交流を重ねた。妻も持たずに修行僧のような暮らしを送っていたが絵に目覚めた理由はわかってはいないが本格的にはじめたのは、30代。狩野派の絵を学んだあとに中国絵画を千枚模写したと言われているがほとんどが独学。若冲は40歳の年に家督を弟に譲り絵師として生きる道を選んだ。そして筆跡の対策に挑んだ。生き物たちの曼荼羅は代表作の国宝の動植綵絵は30幅に及ぶ。群鶏図は1年間鶏を見つめ続け神気を掴んだという若冲は13羽の強烈な色彩の鶏が動きださんとばかりに迫真の生命力。
若冲は鶏たちの世界を花々や森羅万象の生き物たちを神業の如き緻密な表現力で描きあげた。その制作の半ばで私は理解されるまでに千年の時を待つと語っている。若冲はこの動植綵絵のすべてを相国寺に寄進した。効果な絵の具を惜しげもなく使用し誰に頼まれたわけでもなく描きたいものを描くという特殊な絵師だったという。
明和8年の若冲56歳のときに奉行所が突如、錦市場の青物市場の営業停止を言い渡した。それは商売敵の別の市場の策略だったという。記録によればこの時に錦市場の旦那衆が頼りにしていたのは年寄をしていた若冲。若冲は協力を仰ぎ奉行所と粘り強く交渉した。市場を守りたい一心で奔走し献金をしたという。
天明8年に天明の大火が発生した。御所や二条城が燃え200を超える死者を含め京都の8割が焼失した。若冲は家も財産も描きためた絵も失ってしまった。70歳を超えると米斗翁として生きるように。
京都の伏見区の伏見稲荷大社に渡辺いっけいが向かった。石峰寺には石峰寺図があり石工たちとおもに仏像を作り続けたが境内の裏山に点在する500羅漢は今は400体だが当時は1000体もの像があったという。草木国土悉皆成仏というこの世界のすべてに佛が宿るという仏教の理想郷を若中は残していた。若冲は石峰寺に身を寄せて生きるために絵を描いていく。
岡田さんは絵巻の絵の見方を紹介し肩幅に広げ閉じ何が描かれているのかを楽しむと答えた。
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