2023年10月25日放送 23:50 - 0:35 NHK総合

映像の世紀バタフライエフェクト
零戦 その後の敗者の戦い

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(オープニング)
今回は…

日本の工業技術の粋を集めながら、最後は特攻という悲劇的な作戦に使われた海軍の主力戦闘機「零戦」。戦後GHQにより日本の航空産業は解体され、零戦には火が放たれて研究開発の一切が禁じられた。すべてを否定された技術者たちは戦後の日本のために何ができるか探し続け、やがて多くの新技術を生み出していく。零戦の機銃を設計した技術者は世界初の胃カメラを実用化に漕ぎ着け、零戦の振動研究に携わっていた技術者は新幹線の高速運転を可能にした。今回は、戦争に敗れた絶望から立ち上がった技術者たちの物語。

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オープニング

オープニング映像。

(映像の世紀 バタフライエフェクト)
零戦 その後の敗者の戦い

ライト兄弟が空へと飛び立った1903年、群馬県の豊かな農家に堀越二郎は生まれた。第一次世界大戦真っ只中に幼少期を過ごした堀越は、雑誌で紹介される新兵器・飛行機に夢中になる。成長した堀越は東京帝国大学を経て航空機メーカーの三菱重工業へ入社を果たし、2年後には欧米で最先端の航空科学を学んだ。昭和11年、堀越は自身にとって初となる戦闘機「九六式艦上戦闘機」を設計。九六式は日中戦争の最前線に投入され、大活躍を果たす。その設計技術を買われた堀越は翌年、海軍から新たな戦闘機の設計を依頼される。途方もなく高い要求に対し、堀越は徹底的な軽量化を突き詰めるという手段で応じた。エンジンには中島飛行機製の「栄」を搭載し、主翼には住友金属が開発した新素材の超々ジュラルミンを使用。骨格には肉抜き穴を設けるなど強度を保ちながら限界まで軽量化を突き詰め、完成した零戦は昭和15年に正式採用を果たす。

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昭和16年12月、太平洋戦争が勃発すると零戦は艦上攻撃機の護衛として真珠湾攻撃に参加。抜群の運動性能でアメリカ軍の戦闘機を翻弄した。強敵・零戦に対しアメリカ軍は一対一の格闘を避けて二対一で立ち向かうように指導し、パイロットには零戦の見分け方を徹底的に教育。さらには情報部隊を結成して撃墜された零戦の残骸を回収し、弱点の分析に躍起になった。そんな矢先、昭和17年にアリューシャン列島のアクタン島で不時着した零戦がアメリカ軍によって鹵獲される。アメリカ軍はテスト飛行を繰り返し、急降下時の耐久性に問題があることや防弾性能の不足といった零戦の弱点を掴むことに成功。戦争が進むにつれ、零戦の優位性は徐々に失われていった。昭和19年になると、追い詰められた日本は零戦に爆弾を搭載し敵艦に突入させる特攻作戦を開始する。その事実を知った堀越は「なぜ零戦がこんな使われ方をされなければならないのか」と嘆いたという。昭和20年8月15日に太平洋戦争が終結すると、GHQは日本の航空産業を解体し一切の研究を禁止する。こうして職を失った航空技術者たちは、平和国家に生まれ変わろうとしていた日本で何ができるのかを探り始めた。

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終戦から4年後、オリンパス光学工業に外科医の宇治達郎から「胃の壁を内側から撮影できるカメラを作ってほしい」という奇妙な注文が舞い込んだ。この注文を受けたオリンパスは顕微鏡技術者の杉浦睦夫と精密機械の設計技師である深海正治を担当に任命。深海正治は元海軍の技術士官で、終戦まで零戦の同調発射装置を開発していた男だった。深海は海軍時代に銃身内部の検査を行う装置を研究していたことを活かし、食堂よりも細い管の中にカメラの全ての機能を詰め込むことを考案。こうして昭和25年に世界初の胃カメラが誕生。がんの早期発見に役立つ胃カメラはやがて世界に広がっていった。

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昭和27年に日本は主権を回復し、航空機生産も解禁される。世界中でジェット機の研究が進む中、東大教授の糸川英夫はただ一人異なる視座に立っていた。かつて中島飛行機の技術者として陸軍の主力戦闘機「隼」の設計を担当していた糸川は「いたずらに欧米の後を追うばかりでは永久に後塵を拝する」として宇宙ロケットの開発を唱えたのである。そんな糸川を支援したのが、零戦のエンジンである「栄」を作り上げた技術者、中川良一が率いる富士精密工業だった。糸川は手近な材料を用いて小型ロケット「ペンシルロケット」を開発。中川は資金や材料、若手の技術者を糸川の元に派遣した。糸川は昭和32年から1年半に渡って始まった国際気象観測年に自前のロケットで参加することを目標にロケット開発を進め、昭和33年9月にロケットの打ち上げに成功。糸川の功績により、日本は宇宙開発への第一歩を踏み出したのである。

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昭和30年代、農機具の開発で戦後を凌いでいた堀越の元に一つの依頼が舞い込んだ。その内容は旅客機を国産で設計するというもので、堀越はこれを快諾。陸軍の三式戦闘機「飛燕」を設計した土井武夫を仲間に加え、熱い議論を重ねながら基本設計を書き上げた。そして、昭和39年5月に日本初の国産旅客機「YS-11」が完成。世界の空へと飛び立った。

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YS-11の飛行と同じ年、東海道新幹線も開業を迎えた。世界一の速さと安全性を兼ね備えた新幹線は国鉄の鉄道技術研究所によって生み出されたが、この研究所で主体となったのが旧軍の航空技術者たちだった。零戦の機体振動を研究していた松平精は海軍時代に培った技術を活かし、新幹線の異常振動を抑える台車を開発。車体は海軍で航空機設計に携わっていた三木忠直が担当した。彼らの技術は21世紀にも受け継がれていく。2007年に台湾で開業した高速鉄道の車体は日本の新幹線のものだった。

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零戦の機銃を研究していた深海正治が手掛けた胃カメラは内視鏡へと進化し、多くの病を発見する力を人々にもたらした。ペンシルロケットを開発した糸川の名は、2003年に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」が目指す彼方の星「イトカワ」として宇宙に刻まれた。堀越二郎が開発に携わったYS-11は2006年に定期路線から引退する。国産旅客機の開発はYS-11以降行われていないが、こうした衰退を予見するような言葉を堀越は残した。「解明されている分野と未知の分野との境界線を歩いている技術にこそ進歩があるわけで、絶えず失敗を恐れているのではなく、勇気と挑戦こそが必要でしょうね」と。

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(エンディング)
エンディング

エンディング映像。

次回予告

映像の世紀 バタフライエフェクトの次回予告。

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