2024年4月15日放送 22:00 - 22:45 NHK総合

映像の世紀バタフライエフェクト
史上最大の作戦 ノルマンディー上陸

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(オープニング)
今回は…

フランス北西部のノルマンデイー海岸では今からちょうど80年前、世界の行く末をかけた戦いが繰り広げられた。史上最大の作戦といわれたノルマンデイー上陸作戦が行われたのは1944年6月6日。アメリカ・イギリスを中心とした連合軍がノルマンディーを奇襲。ナチス・ドイツからヨーロッパを奪還する足がかりを築いた。戦いに赴いた兵士たちの中には初めて戦場を経験する者もいた。

キーワード
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オープニング

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(映像の世紀バタフライエフェクト)
史上最大の作戦 ノルマンディー上陸

1944年1月、イギリスの港に多数のアメリカの将兵が降り立った。送り込まれたのは総勢150万。大量の軍事物資もともに送られ、ノルマンディー上陸作戦の準備が進められた。この作戦を立案したのは独ソ戦を戦っていたソ連のスターリン。西側からドイツを攻撃しドイツの兵力を二分するようルーズベルトとチャーチルに要請した。チャーチルはソ連のための作戦に反対だったが、ルーズベルトはソ連が対日作戦に参加することを期待し賛同した。作戦のため編成された軍にはアメリカ、イギリスだけでなく、フランス、カナダなど多国籍の兵士たちがいた。最高司令官に選ばれたのはアメリカのドワイト・アイゼンハワー。柔和な笑顔で誰とでも親しく振る舞えるアイゼンハワーは多国籍軍をまとめあげるのに適していた。ノルマンディー上陸作戦の準備を進める連合軍の動きはドイツ側も察知していた。ヒトラーは連合軍の上陸を防ぐため防衛拠点の建設を指示。ノルウェーからフランスまでの海岸線に南北2700キロにわたって砲台などを建設した。連合軍はドイツに上陸地点をさとられないようにする情報戦を開始。ドイツを撹乱し、イギリスから最も至近距離にあるパ・ド・カレーに警戒を集中させようとした。空気で膨らむゴム製の戦車などを大量に配置し偽の暗号通信を飛び交わせ、架空の大軍団をでっちあげた。

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情報戦の鍵を握ったのはスパイたちだった。イギリスは数多くのスパイをドイツへ派遣。最も活躍したと伝えられるスパイがフアン・プホル・ガルシア(コードネーム:ガルボ)。彼は二重スパイだった。ドイツのスパイとして活躍するふりをしながら実はイギリスの指示を受けて偽の情報を流していた。ヒトラーから勲章が授与されるほどの信頼を得たガルボの偽情報はドイツ軍に浸透していった。軍上層部は連合軍の上陸地点をパ・ド・カレーとし、軍を重点的に増強した。ヒトラーは連合軍を翻弄した実績のあるエルヴィン・ロンメル陸軍元帥を派遣。パ・ド・カレー以外の地点への上陸も疑ったロンメルはノルマンディー一帯に棒状の障害物を設置、棒の先には爆弾が取り付けられていた。満潮時は海面の下に隠れ、上陸挺が接触すると爆発する仕組みになっていた。さらに沖合には無数の機雷を設置、パラシュート部隊が降下できないよう陸地を水浸しにした。連合軍側は作戦決行日を、「月の出が遅い」「夜明けに干潮」である条件を満たす6月5日に決定。作戦決行前日、連合軍司令部に「6月5日から季節外れの悪天候になる」との情報が入った。延期した場合、次に作戦を実行できるのは最低でも2週間後。アイゼンハワーは作戦決行か中止か、思い悩んでいたが、一方、ドイツ軍は悪天候の予報に警戒をゆるめていた。ロンメルはヒトラーと会談するため、一旦ノルマンディーを離れてドイツへ戻った。その時、アイゼンハワーの元に低気圧の速度が落ち「36時間程度天候が回復する」との吉報が入る。アイゼンハワーはイギリス気象班の情報を信じ、予定より1日遅れの6月6日を作戦決行日に設定した。アメリカにより気象予報の正確な把握を制限されていたドイツは一時的な天候の回復の情報をつかめなかった。6月5日、フランスに向けてイギリスBBCラジオから詩人・ヴェルレーヌの詩の一節が放送された。それは「48時間以内に上陸開始」を伝える連合軍の暗号だった。

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実はドイツ軍もこの暗号を解読していた。しかし、悪天候を信じ込んでいた司令官たちはこの情報を軽視。ロンメルやノルマンディー地方の部隊に警告を発することはなかった。6月6日午前0時15分、空挺部隊の降下が開始。風にあおられ予定していた地点から大きくそれて着陸する兵士が続出し、木にひっかかる者やロンメルの作った沼で溺れ死ぬ者が大勢いた。無事に降り立った兵士たちは一部の砲台や拠点を占拠することには成功したが、大きな戦果はあげられなかった。初日だけで2500人以上が死傷した。海上には5000隻の艦船が集結。夜明けとともに艦砲射撃が始まった。しかし、霧のため視界が悪く、ドイツ軍陣地への打撃は限定的だった。午前6時30分アメリカ部隊のオマハビーチへの上陸が開始。干潮時を選んだことで陸までは数百mもの距離があり、水を含んで重くなった荷物を背負った兵士たちは次々と降り注ぐ銃弾の餌食となった。オマハビーチの攻撃第一波の死傷率は90%に達し「ブラッディ・オマハ(血まみれのオマハ)」と呼ばれた。一方、ドイツ軍の高官たちはノルマンディー攻撃の知らせが届いても連合軍の陽動作戦であると信じ続けた。アメリカ軍上陸から1時間後の午前7時30分頃、イギリス・カナダ部隊の上陸が開始。水陸両用戦車や地雷除去戦車が活躍し内陸部への進出していった。陽動作戦でないと悟ったドイツ軍の現場指揮官たちは内陸部の戦車部隊の出動を要請。しかし戦車部隊はヒトラーの命令がないかぎり動けない状態にあり、不眠症に悩んでいたヒトラーの眠りを妨げることを恐れた側近たちはヒトラーを起こすことをためらった。これが致命的な遅れとなる。奇襲の知らせを受け急いでノルマンディーへと戻ったロンメルが到着したのは夜更けだった。アメリカ軍の苦戦が続くオマハでは海軍が奮闘。駆逐艦が被弾覚悟で海岸に接近しドイツの主力砲台を撃破した。上陸部隊も決死の突撃を続け、オマハビーチはついに陥落。連合軍は一日ですべての海岸を制圧した。翌日、連合軍は港のないノルマンディーに人工の港を建設。圧倒的な物量を前にドイツ軍にもはや挽回の手立てはなかった。第2次世界大戦の趨勢は決した。ノルマンディー上陸作戦の連合軍の死者は4500人、負傷者は6000人。アイゼンハワーは5万人の損害も覚悟していたが想定をはるかに下回る結果となった。連合国側は勝利の知らせに沸いたが、作戦の際、ノルマンディー近隣の町までもが破壊されていたことは伝えられなかった。作戦により、フランスの民間人は3万5000人が死亡した。アイゼンハワーは一躍国民の英雄になった。8年後の1953年には大統領に就任した。

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2023年7月、かつてソード・ビーチと呼ばれた海岸で元兵士レオン・ゴーティエさんの葬儀が執り行われた。葬儀にはマクロン大統領も参列。ゴーティエさんはノルマンディー上陸作戦に参加したフランス兵最後の一人だった。

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(エンディング)
エンディング

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