- 出演者
- 糸井羊司
オープニング映像。
1945年9月2日に日本の占領統治が始まった。この時にGHQの交渉で外務大臣に任命されたのが吉田茂だ。吉田茂がGHQとの交渉に追われていた頃、岸信介は戦犯容疑者として収監されていた。田中角栄は朝鮮から戻り、大空襲で大きな被害が出ている中で、都内にあった田中角栄の会社や自宅は無事だったという。
その後の選挙で吉田茂が首相になり、吉田内閣が発足した。そして新憲法が公布された。ただその内容に岸信介は怒りを感じていたという。それは天皇の主権廃止と武力放棄を規定していたからだという。第二次吉田内閣では田中角栄が法務政務次官として入閣した。一方で冷戦の影響で岸信介ら戦前の政治家が釈放された。
第三次吉田内閣になると吉田茂は日本の独立回復に動き出した。1950年に朝鮮戦争が勃発するとアメリカにとっての日本の重要性は増すことになり、アメリカは日本を西側陣営に取り込むためにサンフランシスコ講和会議によってサンフランシスコ平和条約に調印し、その後に日米安全保障条約を結んで日本は独立した。そうした中で岸信介は政界復帰に向けて動き出し、田中角栄は地方の経済復興に取り組んでいた。
- キーワード
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1953年の総選挙で岸信介が政界に復帰した。そして吉田内閣は1954年に総辞職、1955年に自由民主党が結成された。岸信介は初代幹事長になり、1957年には岸信介が首相になった。そして岸信介は日米安全保障条約の改定に動き出した。第一次改造内閣で田中角栄は大臣になり東京タワーを完成させテレビ免許の大量公布を行った。日米安全保障条約は1960年に改定されて、日本では強行採決が行われた。
日本国民は強行採決に怒り、安保反対運動は燃え盛った。岸信介は強気の姿勢を崩すことはなかったが、世論調査では岸内閣は辞めたほうがいいという意見のほうが多かった。岸信介は安保改定には漕ぎ着けることができたが、政権を維持することはできず総辞職することになり、池田勇人が首相になった。経済が重視されるようになり、田中角栄が頭角を現すようになり、公共事業の誘致を求めて自治体や企業の担当者が田中角栄の元を訪れるようになった。
1967年10月20日に吉田茂は死去した。葬儀には田中角栄も参列したという。1968年に日本は世界2位の経済大国になった。田中角栄は首相になり、日中国交正常化を果たした。また田中角栄は日本列島改造論を掲げて動き出した。新幹線鉄道網の整備をするようになった一方で、土地投機ブームやオイルショックが起こり、田中角栄の支持率は下がっていった。
田中角栄の支持率は戦後最低の12%まで下がり首相辞任を決断した。1983年にロッキード事件で有罪判決を受けた田中角栄の元に岸信介が訪れた会話したという。そして1987年に岸信介は死去し、1993年に田中角栄は死去した。3人の政治家は多くのものを残してきた。2022年に岸信介の孫の安倍晋三が凶弾に倒れた。岸信介は政治家の覚悟について「政治家には執念が必要と語っている。
エンディング映像。
番組の次回予告。
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