- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗 河合敦
今回は「どうする家康」で家康に立ちはだかる武田信玄を特集。戦国最強と評されるが、若き日は部下をまとめられないダメ上司だった?
- キーワード
- 大河ドラマ どうする家康徳川家康武田信玄
オープニング映像。
「どうする家康」で阿部寛が演じる武田信玄について、佐藤二朗は「戦国最強というイメージ」と語った。諸説はあるが生涯で72回戦い、戦績は49勝3敗20分。
長野・高遠町には武田信玄の父、信虎の墓がある。信虎は悪逆無道だったことから信玄によって追放されたとされてきたが、歴史家の平山優氏は「飢饉、災害、凶作が繰り返し起こり、物価は信玄の時代に比べて最大5倍、通常でも3倍の高値になっていた」と話す。信玄は父を追放することで領民の不平不満を静めようとしたと考えられるという。戦国時代の災害に詳しい根元裕樹氏によると、甲斐の国を流れる御勅使川で洪水が起きると、耕作できる土地は限られていた。そこで信玄は川のすぐそばに石を積み、堤防を築いた。複数ヶ所の石積みは川の流れを変化させ、大規模な洪水が起きにくくなった。結果として耕作可能な土地が増え、人々の生活は向上した。
武田信玄は石積みで川の流れを変化させて洪水を起きにくくした以外に長野の善光寺を甲斐の国にも移していた。参拝者を増やし、地元にお金を落としてもらう振興策のためだった。さらに良質な漆を収入源とし、織田信長にも好評だったという。
家督を継いだ武田信玄は支配地を広げていくも、長野県北部を治めていた村上義清に敗北。数的優位に立ちながら、家臣たちが命令に従わなかったといい、板垣信方は戦いのさなかに首実検までしていた。油断した板垣は討死。当時の家臣は信虎を追放し、信玄が家督を継げたのは自分たちが担ぎ上げたからという意識が強く、信玄としても20代半ばとあって統制力を欠いていた。古市昌一教授の監修で、総大将の統率力の差がどれだけ戦いに与えるかを人工知能でシミュレーション。使番を通して前線の情報が総大将のもとまで吸い上げられず、総大将は有効な手立てを打てずに敗北を喫した。
リーダーが作戦の大方針を決定し、現場は現場に一任することは「ミッション・コマンド」と呼ばれる。武田軍はこの方針を取り入れていて、真価を発揮したのが三増峠の戦い。北条軍から挟撃されるなか、武田信玄は別働隊を率いる山県昌景に後方の敵に対処するよう命令した。本隊が苦戦を強いられるなか、別働隊は後方をある程度抑えたところで、必要最低限の兵以外で敵軍へ奇襲を仕掛けた。これにより、武田軍は勝利を収めた。古市昌一教授の監修で、「ミッション・コマンド」を取り入れた部隊は得られた情報をもとに意思決定する時間が短く、機動力もあるという。信玄は山県昌景、馬場信春など自らの目利きで選んだ武将を登用していて、歴史家の平山優氏は「信玄は基本的に実力主義」と語った。徳川家康と激突した三方ヶ原の戦いで武田軍は魚鱗の陣を展開。密集した陣形により、命令が伝達しやすく、徳川軍に大勝を収めた。
佐藤二朗は「立派な作戦、指揮系統があっても家臣との信頼関係が強固かそうでないかが大きく関わってくる」と話し、素質を見抜く観察眼、育成力も備えた信玄のもとで、武田軍が最強となっていくのも納得だという。
「歴史探偵」の次回予告。
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2023年6月28日(16:15)